カラマーゾフ少女人形

承前:エロDVD屋にて―男には男の世界がある― - 関内関外日記(跡地)

 おれは、いつもの中古エロDVD屋の中古棚を、うすら馬鹿の顔で見ていた。まったくぼんやりしていた。警戒心が足りなかった。ふと気づくと一人の紳士が横に立っていた。おれにはすぐそいつが誰かわかった。いや、おれはそいつのことなんて何一つ知らない。それに一見すると男のようだが、女かもしれなかった。若いやつかもしれないし、年寄りかもしれない。この時代にそんなことを気にしたところで、正体なんてものはわかりゃあしないんだ。
 だけど、おれはそいつに心当たりがあったし、なにを言われるかもわかっていた。
 「おい、あんた、いつになったら『カラマーゾフの兄弟』を読むんだ? 打順と守備位置のメモも渡したはずだが?」
 そら来た。ぜったいに言われると思った。
 「いや、ちょっと仕事が忙しいんだ。昨日も今日も仕事だ。月月火水木金金ってやつだ。いや、うそじゃない、休日出勤の前にエロDVD屋に寄るくらいのことはある……」
 紳士は棚の一点から視線を動かさずにたたみかけてきた。
 「いい加減なことを言うんじゃない。『フルシチョフ回想録』を読む暇はあったんだろう。それに、いま図書館で借りてきた本はなんだ。『ミコヤン回想録』じゃないか。言っておくが、そいつにはベリヤの名前は出てこないぜ」
 「……いや、わかった、わかった。次は『カラマーゾフ』を借りる。それにそうだ、「少女の人形」みたいなやつのエロDVDも買う。それで、その内容を『カラマーゾフ』の感想文に混ぜ込んでブログに書く。それで手を打ってくれ」
 それで、おれは、「少女と人形」みたいなやつを探して棚に目を走らせた。ちくしょう、紳士といっても、あの記事に問い合わせはたった一件だったんだぜ。紳士といっても変態じゃないか……。
 が、ぜったいに売れ残っていると思っていた「少女と人形」みたいなやつはどこになかった。「女子校生 人妻レズ調教」ってどんなシチュエーションだ? いや、今は関係ない、人形、人形……、くそったれ、どこだ? おれは明らかに動揺していた。
 そんなおれの内心を見透かしてか、やっこさんが口を開いた。
 「少しはわかったか? いつまでもあると思ってちゃいけないんだ。なにもかもがそうだ。「少女と人形」みたいなやつも失われる。あんたの人生の時間も失われる。気づいたときには遅いんだ。だから、さっさと『カラマーゾフ』を読むことだ」
 
 気がつくと、おれは中古棚の前に一人で立っていた。なにも買わずに外に出てみれば、空はひどく曇っていて、秋とも冬ともわからない冷たい風が吹いていた。おれは伊勢佐木町に向かってひとり歩きはじめた。一歩、一歩、なにかを失いながら。

※この話はフィクションです。