現代詩文庫『多田智満子詩集』を読む

 児童詩のようなものは書かされたことがあるかもしれない。国語の教科書に詩が載っていたこともあるだろう。かといって、これといって詩の書き方も習った覚えはないし、読み方も同様である。それでもおれには大好きな詩人が何人かいる。ただ、大好きな詩人たちのうち、本当に詩にぞっこんなのは田村隆一ひとりかもしれない。
 おれは詩の読み方も知らないし、多田智満子が古今東西から反射させようというイメージについていけるだけの知識がない。おれの知ってるアルゴ船の行き着く先はベリヤの国にすぎない。とはいえ、ときおり見せる俗っぽさや洒脱な感じはいかにも悪くないという感じはする。気に入った詩をひとつ引用しよう。

失業
雇い主がいなくなって
われわれはみな失業したけれど
べつに大きな声を出すこともないのだ
人間の街は重い鎖のように
どこまでもつづいているであろうし
退屈すればちんと洟をかんで互いの美貌をほめ合うだけのことだ
ピエルフォン神父は手を広げて
ハイ アナタ 
ヴォルテールハワライマシタ
と語るであろうし
じっとすわってもいられないほど疲れたときは
愚かしい犬をつれてうろうろ歩き
帰りには宝くじか眠り薬でも買えばよい
親切な神父のさがしてくれた就職口を
ていねいにことわって
さびしくなれば壁にもたれ
安物のパイプからひとすじの香煙をたちのぼらせて
それの行方を眺めるだけのことだ

 おれはこれを読んで強烈に煙草を吸いたくなった。小学生並みの感想だが、小学生にひとすじの香煙の行方がわかるものか。いや、お香でも焚けばいいのか。まあいい。「われわれ」がたれか、「ピエルフォン神父」はたれか、構成するそれぞれに元ネタはあるのか、すべてに元ネタはあるのか、おれはしらない。しらないが、いいと思う。宝くじか眠り薬か。悪くない。

 「人が見るものは人が語るものの中には決して宿らない。」これを「或る人が語るものは、他の人が読みとるものの中には決して宿らない」と言い変えてみよう。これはヴァレリイの「人はたかだか誤解し合えるにすぎない」のエコーでもある。しかし、ひとつの詩を読むときの人びとの誤解の総量と、それにもかかわらずそこに浮び出るポエジーの幻想を考え合わせると、言語に依拠しながら言語の埒外にはみ出す詩の“彼岸性”への信仰こそ、現代詩の最後の砦ではあるまいかという気がしてこないでもない。
――多田智満子「ヴェラスケスの鏡」 ミシェル・フーコー《ことばともの》から

 日本語でおk。
 あと、おれはキャベツばかり食っていることに定評があるので、もうひとつ引用して終わろう。

わたし
キャベツのようにたのしく
わたしは地面に植わっている。
着こんでいる言葉を
ていねいに剥がしていくと
わたしの不在が証明される。
にもかかわらず根があることも……

多田智満子詩集 (現代詩文庫 第)

多田智満子詩集 (現代詩文庫 第)