多田智満子『鏡のテオーリア』を読む(あるいは『中二病でも恋がしたい!』について)

鏡のテオーリア (ちくま学芸文庫)

鏡のテオーリア (ちくま学芸文庫)

 しかし、水月を追う前に、水鏡というものの性質について、ここで多少深く立ち入って考えてみる必要があるだろう。深く、というのはこの場合言葉のあや以上のものだ。というのは、ガラスや金属の鏡と異なり、湖や池や井戸などが提供する天然の水鏡は深さを持つ鏡なのである。そこに沈み、溺れることのできる鏡なのである。

 立木にせよ、雲にせよ、水に映ずるかぎりにおいて、そして水に映じただけで、すべてが美的なものになる、と私は述べた。水鏡のもつ現実修正の力がそれほど強力である上に、映されぬものがただの木や雲でなく、美しさや希少性、あるいは威光においてぬきんでたものであるならば、水に映るそれの姿はたやすく一つの高貴な寓意あるいは象徴となるであろう。

 鏡の語源は「影見」か? いや、古代は水たまりや池などに身を屈めてその姿を写していたのだろうから「屈み」ではないか? いや、やっぱり「赫見」か。……といった考察あたりの話を引用しようかと思っていた。が、さきほど観た『中二病でも恋がしたい!』10話の告白シーンが頭をよぎったのである。
 そうだ、川面には短い間であれど二人の姿が写っていたはずである。また、そんな風に見ていると、六花の姉の言葉を受ける主人公の顔は、カップの中のコーヒーに写されている。恋する若者は「高貴な寓意あるいは象徴」なのやもしれぬが、後者はどうだろうか。映像演出におけるいろいろの意図と技法のひとつに属するものであろうが、そうした方が直接写すよりも何やら思わせるところがあるのかもしれない。実像よりあるいは鏡像の方に魂が宿る。
 ところで、『中二病でも恋がしたい!』に出てくるのは邪王真眼、元ネタは邪気眼ということになろうか。しかし、元の元をたどれば辞書にも載っている邪眼や邪視ということになろう。太字強調は引用者による。

 英語でevil eye、イタリー語でmal'occhio(マロキオ)というこの邪眼については、南方熊楠博士が彼の著書の処々方々で言及しているが、彼は邪視という訳語を用いている。「明治四十二年五月の東京人類学会で余はイヴル・アイ邪視と訳した」と。「其後一切経を調べると、四分律蔵に邪眼、玉耶経に邪盻、増一阿含法華経普門品又大宝積経又大乗宝要義論に悪眼、雑宝蔵経と僧護経と菩薩処胎経に見毒、蘇姿呼童子経に眼毒とあるが、邪視といふ字も普賢行願品二八に出おり、又一番よい様でもあり、柳田氏その他も用ひられておるから、手前味噌ながら邪視と定めておく。尤も本統の邪視の外に、インドでナザールといふのが有て、悪念を以てせず、何の気もなく、若くは賞讃して人や物を眺めても、眺められた者が害を受けるので、予之を視害と訳し置たが、是は経文に拠て見毒と極めるが良かろう」(『十二支考』)

 などという話も載っていたわけだが……書き写すのにひどく苦労して何を言いたいのか忘れた。というか、「そういえば澁澤龍彦が邪眼の持ち主として有名だっただれかを小説家のだれかが怖がっていたみたいなヨーロッパの話を書いていたな」とか本を漁ったりする始末だし。
 ちなみに、鏡の話なのになぜ邪眼に話が及ぶかといえば、「見る」、「見られる」ものゆえである。ところで、寺田寅彦は透明人間の映画を観て、目の構造的に透明人間は自分自身が完全に盲目であるはずだみたいな感想を書いていたらしい。まあ、透明人間はよろしい。なんの話だったか思いだせ。『中二病でも恋がしたい!』の話だろうが。

 視線がかち合う、眼と眼とが合う、これは人間の出会いにおいてしばしば決定的な意味をもつ。『古事記』に、婚姻という意味で麻具波比(まぐはひ)という語が用いられているが、これはもともと目合(まぐはひ)であり、男と女の目とが合うことであった。

 眼帯を外して眼と眼で通じ合った挙げ句に、六花ちゃんはまぐはふのか? まぐはふんか? ああ? というか、『中二病』ってこれ、エヴァ以上に「アニオタのおっさんは現実に帰れ」みたいな……いや、わからんが。というか、おれに帰るべき青春とか無いんだけど。なんだろう、このむなしさは……。
 と、話が乱反射してもいいだろう。なにせ鏡なのだから、あちらこちらさまよい、また終わりがなくてもいいのだから。たぶんボルヘスもそう言う。知らんが。
 しかしまあそれでも、なんだろう、最後の方に行くと仏教、華厳に話が行くところがいい。正直、おれは西洋の神話も哲学も暗いし、記紀もどうも頭に入らない。ただ、因陀羅網(インドラ・ネットワーク)となるとやや明るくなって想像が働く。「無量に算すべからず」の宝玉が網の結び目にあり、各々がその他すべてを写す……重々帝網。十玄門、過去の過去、過去の現在、過去の未来、現在の過去、現在の現在、現在の未来、未来の過去、未来の現在、未来の未来で九つ、それらすべてを合わせて一つ、全部で十世、を同時に照射、反射する。永遠の永遠の永遠と言ったのは草間彌生だったが、ここに鏡の境地のひとつがある。一瞬にして三千世界の梅の花は開くが、その縁起に終わりもない。
 と、まあそんなところで。ああ、あと、気になったのは、『扶桑略記』で紹介されている天智天皇の挿話で、えーと、天武天皇にあやかって同じような仏像を作って僧五百人を得度させたいと思う。しかし、その立派な像を作った工匠は化人であって再び得られぬ。が、夢のなかで「だったら鏡に写せばいいじゃん」というお告げを受けて、すげえでかい鏡で元の立派な仏像を写して大掛かりな供養をやったとか。で、これも要出典な話には違いないだろうが、ある意味で仏教の本質ついてんじゃねえのって話で。それと、徳川十四代将軍家茂夫人和宮の墓を調査したら胸に家茂の遺影を抱いていたけど感光して消えてしまったとか、まああとで調べよう。おやすみ。
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