いい年をした男が本当に泣きそうになる。
アパートの鍵がないからだ。
メッセンジャーバッグの、いつも入れている場所のファスナーが開いている。なかに鍵がない。
スーパーの袋を地面に置く。iPhoneアプリのライト(実用する日が来ようとは)でメッセンジャーバッグの中を照らす、スーパーの袋の中を照らす、自転車のかごを照らす。すべてのポケットに手を突っ込んでみる。不良に脅されたわけでもないのにジャンプする。
鍵は、なかった。
思い当たるふしがあった。スーパーの駐輪場。前輪をロックさせて固定。三時間まで無料。解除の番号を押す。
「5バンニハチュウリンサレテオリマセン」
「?」
ロックされているのにロックされていないことになっている。もしそうだとすれば厄介だ。あわてて自転車に戻る。自転車を引き出す。錠はおりていなかった。突っ込みが不十分なだけだった。よかった。おれは自転車のロックを外し、ライトを点け……。
そこだ。
駐輪状態のほうに気を取られて、鍵をいつものポケットに入れ、ファスナーを閉め忘れた? 入れたつもりで、その場で外に落とした? その可能性。前者であれば、帰路どこかの段差などで飛び出した可能性もある。後者ならば、駐輪場にある可能性は高い。
おれはスーパーの買い物袋をアパートのドアの前に置いた。とりあえず、真っ暗な道を、落ちているかもしれない鍵を探しつつ戻らねばならない。暗い道を。寒い中を。
自転車にまたがり……ふと考えた。自転車の速度で道に落ちている鍵の束を見つけるのは難しいのではないか。そう思って自転車のライトを外し、歩いてスーパーまで戻ることにした。
が、地面を照らしつつ何十歩か歩いてみて、このままではスーパーに戻るのにどれだけかかるか考えると、暗澹たる気持ちになった。落としたのは駐輪場と決め付け、自転車でとりあえず戻ることにする。そうしよう。おれは踵をかえす。
歩きつつ考える。おれのアパートの鍵をおれ以外に持っているのは誰か。母は持っているはずだ。いざとなれば車で数十分くらい、届けてもらう(父と縁を切ってしまったので、彼らがどこに住んでいるのかよく知らない)。女も持っているが、今宵どこでどうしているか知らぬ。いざとなれば電車で取りに行く。いずれにせよ、このままでは、おれは冬の夜を外で過ごさねばならぬ。いや、漫画喫茶でもなんでもあるが……。それにしたって、行き場を失った人間が夜を過ごす公共施設もないこの世は正しいのか? 少なくともアパートの鍵をなくしたこの夜は誤りだ。
……目下のところ、考えるべきは現実だった。自転車にまたまたがったおれはゆっくりと、スーパーまでの道のりを戻る。鍵束は見つからない。絶望的な気持ちになってくる。ただ、おれはこの道のりを知っている。財布を落としたことがあった。財布は親切なだれかが警察に届けてくれていたが、鍵束はどうだろう? できれば、ほっといてくれた方が、今はありがたい。
スーパー近くの信号にひっかかる。歩道に自転車をとめ、おれは母に電話する。
「鍵を落としたみたいで、今探している。いざとなったらスペアを持ってきて欲しいのだけれど」とおれ。
「え、引っ越したあと、あんたの鍵わたされてたっけ」と母。
「マジか」とおれ。
電話は終わった。
iPhoneをバッグに戻しつつ、またカバンをまさぐる。締めたファスナーをまた片っ端から開けて手を入れてまさぐる。
ん? 手応え、ある。
鍵束、あるやん!
普段は使ってない、一番上のポケットだ。それこそ鍵をぶら下げるためのフックのついているポケット。そのフックの紐がファスナーに絡まったことがあって以来、一度も使ってないはずのポケット。わけがわからない。ただ、駐輪場でおれは情況のほうに気を取られ、無意識のうちに間違ったポケットに突っ込んでファスナーをしめた。ただ、なんでアパートの前で気が付かなかったんだ? ファスナー付きポケットが三段あるのに気づかず、二つしか確かめなかった? 確かめたけど捉えられなかった?
けど、ともかく鍵束はあった。おれはアパートの自分の部屋に帰れる。
いい年をした男が本当に泣きそうになる。
アパートの鍵があったからだ。
本当の話だ。
そして、それでもおれはTimbuk2を愛している。
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