渡辺京二『新編 小さきものの死』を読む

 『評伝 宮崎滔天』読んで、あとがきかなんかに『小さきものの死』と同じテーマをやってんだみたいなこと書いてあって、じゃあどんなんだろうって手にとってみた。いろいろ引用したい箇所はあるんだけど、時間がない(図書館で本を返して借りてというところで、想定外の「予約の本のご用意もできております」が入ってきて、まず質量として一回に借りる量じゃないだろみたいなことになった)ので、印象というか、そういうところをちょっとだけ。
 で、なにがテーマかっていうと、吉本隆明の安保への関わり方から始まって、水俣病の闘争、そしてドストエフスキーの政治論って並んでて、そんでまた、著者個人の、若き共産党員としてのオルグ六全協による挫折なんてのが並んでるわけ。つーわけで、なんつーのか、エリートと大衆というか、インテリゲンチャと民衆というか、知識人と生活者というか、そういうあたりの話をしている……んじゃねえかな。それでいうと、宮崎滔天が志士だの義士だのというところを越えてったんだっていう、そのあたりと呼応しているわけなんだろう。
 しかし、なんだろうか、この著者のスタンスというところも、なんかピンとこないというか……もちろん書かれた時代、おれの知識とか、おれの階級とか、そういうもんもあってのことさ。その、著者はたぶんだけど、吉本隆明みたいな(……と言い切れるほどしらねーけどよ)、生活者絶対主義? みたいなところの方の人であって、最後の滔天の方に評価を置く人なんだろと思う。思うけど、あんまり知識人が民衆に擦り寄ったニセモノの態度取んなよみたいなところが強く出てると、なんか鼻白むところもないわけでもなく。いや、結核で入院していて、べつの病棟から聞こえてきた貧しい農家の母娘の死、小さきものの死にベースがあるのはわかっていてもね、というような。
 それで、あとはといえば、おりゃあもうぜんぜんなにを言う資格もないけれども、運動論みたいなところじゃ昨今の反原発運動界隈の侃々諤々みたいなものを思い起こさせたり、水俣病のあたりでは『苦海浄土』読まなきゃと思ったり、自分の世代は愛国心教育ばかりでなく理数系の実学を叩きこまれていたから、父母の世代を遅れたものとして見ていたとか、そんなんあったかな。あとは、あれだ、やっぱりこの、西欧とロシア、西欧と日本の、奇妙なまでに似通った部分のあることなど「やはりそうだろうか」などと思ったりもした。そんなところで。

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