きみにもラッセン・チャンス!

 わたしはなにごとかを考える。考えることは言葉によって行われる。わたしにはわたしの語彙の限りがあり、語彙と語彙とを結びつける間においてのみそれがなされる。
 語彙と語彙とが結びついたものを考えの結果と呼ぶとする。AはBである。AはBによってCになる、云々。むろん、結果にならぬこともある。むしろわたしなどはつらつらと考え考えして、なにか結果をえられることが少ないのかも知れない。
 結果をえるということはどういうことだろうか。それを考えることの目的と呼ぶべきかもしれないし、その過程があるいは根っこなのやもしれない。いずれにせよ限られた語彙、言葉で考えることになる。
 語彙を構成するひとつひとつの言葉を拾いあげる。糸で結びつけられたように、いくつかべつの言葉がついでに引きあげられる。そこにあるべき経路があり、セットにして扱ったほうがいいときもある。
 繋げられた糸のせいで考え方が縛られている場合はどうか。拾いあげたひとつの言葉を今一度置きなおすか、糸を断ち切って、べつのなにかと繋げてみようとするか。既存のもので済まされないから考える。
 一対一の言葉の意味で済まされないところに、もし意味があるとすれば、考えることの意味がある。しかし多くの言葉が一対一ではないのだから、言葉はいつも済まされていない。
 言葉はいつも済まされていないと考えるということは、なかなかにむつかしいことのように思える。一応、済ませておかなければ、拾うも置くも不可能だ。
 不可能の言葉があるとすれば、ランダムに生成された文字列。ただしそれは、とくべつな啓示であるとか暗号であるとか見なさぬ限り、考えごとのなかに入れることはできない。
 わたしのいまだ知らぬ言葉はランダムに生成された文字列となにが違うのだろうか。わたしの知らぬ言葉、わたしの知らない異国の言葉。そうであると気づけば、わたしは意味を調べる。
 調べられる意味は、だれかが先にそれを考えてくれた結果だ。わたしがそのだれかの意味をたどり、保留つきであり一応済ませておく。ここで「一応」にしておかなければ、済まされたものになる。
 済まされてしまった言葉というものは、語彙の沼の底に沈んで生き生きとしない。あらゆる言葉が生き生きとするとその考えの奔流の前に狂気に陥るという予感もある。
 あらゆる言葉が生き生きとしている必要はないが、新しい言葉を知らなくては語彙の沼は撹拌されずよどみゆくばかりになる。わたしは「一応」の沈澱を撹拌する。
 撹拌させようという必要性がある場合もある。ただし、多くの場合のとりとめのない考えごとに、思索に必要性というものはない。かわりになにか動機があるはずだ。
 はたして、動機というものがなんであるか手に取って見てみたいもののように思えるが、それはわたしの生物的な存在として持つ脳の要請なのかもしれない。
 あるいは、脳が要請した上でわたしたちのはるかなる祖先が生み出してきた言葉そのものの要請なのかもしれない。
 この生き物が言葉を要請したのか、言葉がこの生き物を要請したのか。
 過去に向かっての絶え間ない前進をつづけること。
 身体の外に築き上げられた、この目にうつるものどもはどうしてくれようか。