『苦海浄土』を読む。そしておれは語りだす。

  「ああ、そういや、おれ、あんたの親父さんには悪いかもしれんけど、最近、水俣病の本、まあ小説なんだけども、読んどるんですよ」
 と、おれ。
 「ま」
 と、声に出したか出さないか、キッとくちびるを結んで眉を吊り上げる母。息子だからこそわかる程度の変化ではある。それゆえ、母が怒りに似たなにかを溜め込んだな、というのが一目でわかる。彼女は怒りや鬱憤、憎悪、不愉快をいったんは溜め込むタイプの人間だ。そして、溜め込んだそれが膨れ上がって大爆発させるかというとそうでもなく、小規模のベントを続けたり、せいぜい小規模の爆発を起こすくらいだ。
 おれは母と子の雑談のにやけ顔のまま、内心も少しほくそ笑んで、「お、やっぱりそこはタブーか」などと思う。目の前にいるのが母ではなく興味深い昭和史を語ってくれる、生きた本みたいに見える。おれにはあまり人間味がない。
 が、しかしだ。それがおれの想像以上にセンシティブな問題であるとしたら、あまり面白くないことになる。一応、残り少ない親戚への伝手は残しておきたい。おれは少し話題を振りつつも、早めに退いて話を変えた。しかし、おれがそれを言い出したきっかけはなんだったろうか。魚の食べ方かなにかだったと思う。まあいい。
 そしておれは想像する。母が小学生から中学生にかけて父の転勤とともに大阪に行ったこと。その父、すなわちおれの祖父は、孫世代のわれわれがまったく想像することのできないほど家庭では厳しい人間だったこと。ようやく四人きょうだいの末娘が生まれてから少し柔和になったらしいこと。趣味らしい趣味もなく、仕事一徹の昭和の男……。
 そしておれは思い出す。正月に訪ねていっても、挨拶とお年玉を渡したら、さっと自分の部屋に退いてしまう祖父。ほとんど会話はなかった。一度、正月の集まりが銀座で行われたことがあった。スーツにコートを着た祖父は、鎌倉の田舎から出てきたおれの幼い目から見て、いかにも東京という都会に馴染んでさまになっていた。後年、自分が競馬をやることになるとは知るよしもなかったが、銀座の場外で慣れた感じで馬券を買うさまなどは、不思議と覚えている。そういえば、お年玉以外におれが祖父からもらったものといえば、おれが競馬を始めたと知って渡された、リアルシャダイのテレホンカード一枚だ。なぜリアルシャダイなのか、今持ってよくわからない。そうだ、卓を囲んだこともある。牌には力がこもっていたが、表情はポーカーフェイスだった。たまに大声で笑ったような気もするが、快活な印象は少ない。怒ったところは見たことがない。
 おれの中で母の父は、東京の人間であり、昭和のサラリーマンである、という印象に、ともすれば尽きてしまう。それとて後から思えばのことであり、たまにしか会わない彼のことなどわかりようもない。今さら話を聞こうにも、恐山のいたこにでも頼まねばならない。それに、おれの聞きたいことは、聞きにくいことなのだ、たぶん。

石牟礼道子『苦海浄土』 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
 『苦海浄土』三部作、「苦海浄土」、「神々の村」、「天の魚」。正直いえば、おれにこれが読みきれるのか? と思った。たいした読書家でもないが、こんなに長い本を読んだ記憶がない、というくらいに読んで読んで読み終われぬ小説だった。
 生き地獄としか言えぬ水俣病患者の様子、死後解剖されて目以外包帯でぐるぐる巻にされて帰ってきた幼き我が子を背負い、バラバラにならぬように気遣いながら夜道を行く母の姿、患者となってしまった漁師たちの口を通して語られる美しい海、海とともに生きる姿ははるかはるか古代の情景のようにも見え、その中に混じって切り刻むような医学レポートが引用され、水俣病患者を中傷するビラが引用され、新聞記事が引用され、またそれらもなぜか境目のない一つの世界のように見え……。
 そして、それをたしかな目で見て、情念のこもった当地の方言で筆記し、日本下層民、常民、なんでもいいが、かれらの思いを伝える著者というものの紛れも無い力。しかし、一方で、これまたなにかとらえどころのないところもあって、最後にはチッソ本社に乗り込むところまで動向し、渦中の中心人物の一人になっているのにもかかわらず、どこかその視線はそこにはいないもののようにも思えてくる。この不思議な感じというのはなんであろうか。
 本書は告発本でもないし、啓蒙書でもない。活動家、運動家の回想記でもない。太字で文学いうもんがあれば、まさにそれ、なのだ。ノンフィクションやルポルタージュじゃあない。日本古代からのいとなみと、近代とのぶつかるところに、まことにそう、池澤夏樹が解説で書いているがごとく、何かの縁によって用意されてたかのように、その時代のそこにいた。そして40年にわたって書かれたのが、この三部作。
 読み応えは、ある。あるに決まってる。もちろん、水俣病について知ることもできる。チッソや行政、政治、官僚のやってきたことも知ることができる。

「三十になるやならずでなあ。役人の飯食えば蛆になるちゅうが、蛆の魂ほどもなか男じゃったばい。あれほどにも人間のこころの暗かもんに、日本政府の高官がつとまるなら、日本ちゅう国も腐れたもんじゃ。日本ちゅう国ば、はじめてみた」

 と評されるのは、「患者の言葉じりをつかまえては大声で逆につめより」、泣き出す婦人もいたという厚生事務次官橋本龍太郎(32)だということも知ることができる。
 また、チッソの城下町企業として栄えてきた水俣市民が水俣病患者を「腐った魚を食べた連中」として差別するさまも知ることができるし、逆に水俣病患者同士で「どこそこのだれそれは生活保護を支給されているが、子供たちは健康で働いているので打ち切ってください」という匿名の投書が役所に送られていたことも知ることができる。
 ……知ることができる、のか? 知ったつもりか? さあわからん。繰り返すが、小説だ。会話もなにもテープレコーダーなんか使ってたわけじゃあない。ただ、この、あるいは巫女のような語り部の紡ぎだす世界を長く歩いていると、あったことのように思われてならない。「怨」一文字書かれた黒旗の並ぶ光景、患者の字も読めぬ老女たちが必死に覚えた御詠歌をうたう光景。わかった気になってはならぬと思う一方で、ひとつの世界を見たとも思う。それだけ『苦海浄土』に描かれている重なり、絡まり、こんがらがり、どうしようもないような世界の厚み、奥行き、どうにも説明できない。読んでみてくださいな、としか言いようがない。むろん、医学や化学の見地から水俣病について学びたい、あるいは、公害や経済、歴史的事実、国や会社側の見解を学びたいというのならば、もっと適切な本がたくさんあろうことかとは思う。ただ、これだけ重層的で神話的で行動的で不思議で凄まじい代物はあんまりねえだろう。

 我が家系の話に戻る。母の父は大連で生まれ、すぐ母親に連れられ内地に来る。母の父の父は大陸でやりたい仕事があり当地に残り、べつの女性との間に娘を作る(後年、その娘は腹違いの妹という微妙な関係でありながらも、祖父と交遊があったという)。名古屋で育った祖父は、日本窒素肥料株式会社の入社試験を受けに、大連に赴く。あるいは朝鮮窒素肥料株式会社だったかもしれない。しかし、入社後も内地にいたらしい。そこで祖母と見合い話があるが、兵隊にとられるということで一旦棚上げになる。が、徴兵検査の結果、病気がひどいということで免除される。その病気とは「痔」であるというのが、我が母系で語られる歴史である。痔とて馬鹿にできぬ病気であるには違いないが、痔で戦争に行かずに済み、助かった命があるという話となると少しは笑い話にもなる。もっとも、その笑い話が事実とすれば、痔ひとつでおれという人間がこの世に居たり居なかったりした可能性もあって、やはり笑えてしまう。徴兵されなかった祖父は祖母と結婚し、ついに徴兵されぬまま終戦を迎える。あるいは日窒コンツェルンという植民地国策企業グループの従業員であったがために助かったというのはうがちすぎだろうか。
 水俣病が問題になったのは、おそらく祖父が働き盛りの30代から40代。東京、あるいは大阪にいた。チッソは国に、市に守られる一方で、名指しされた殺人企業だ。世間の目が厳しくないはずもない。その勤め人、その家族、その子供が肩身の狭い思いをしたことはなかったろうか。水俣市企業城下町だったが、東京や大阪では一企業に過ぎない。学生たちが声を上げる時代でもある。そこに、あの母の苦い表情があったかもしれない。あくまで想像の話だ。あるいは、チッソ本社に患者とその支援者たちが乗り込んでいったとき、そこに祖父の姿はあったのだろうか。これは想像もできないし、もし、彼がそこいてなにか見たり、なにかをしたりしても、家族には語らなかっただろう。おれはそう思う。そして、少なくとも母は何も聞いていない。
 祖父の一家は裕福ではなかったが、かといって貧乏でもなかった。長男は早稲田を出て商社に入り、母は高校を出ると銀行で働いた(本人は大学に行きたかったそうだが……)。晩年の祖父は日吉にあった家を売り、町田の団地に引っ越した。おれが知る母の一家は、ややもすると上流の雰囲気を残す父方の家系とは違い、平均的な高度経済成長期の家庭、というイメージである。むろん、もっと細かく見ていけば、「東京近辺の」であるとか、「大きめの企業づとめの」とか、いろいろの条件はつくことだろう。谷川雁は「日本の階級分析というものは、馬を一頭持っているか二頭持っているかというところで違ってくるもので、そこを見るのが重要なんだ」みたいなことを言っていたらしいが(本書でなく渡辺京二の本にあった)。
 して、2013年正月のことである。おれは祖母の遺品から俳句の本を漁っていた。タイトルのないファイルを見つける。開いてみると、チッソ水俣病発生前と発生後の取引先銀行とその融資額の変遷をまとめた手書きの資料のコピーである。ばか丁寧に書かれた字を見て「これが祖父の字か」と思う。が、一部分だけ閉じられていたものであって、そうと確信する材料はなかった。ただ、ほかに祖父の仕事に関するものなど何一つない。なにを思って祖父はこれを残したのか。おれにはよくわからない。おれはファイルを元に戻した。写真の一枚も撮らなかった。もしもあの部屋のものを処分するときは、その前におれを呼ぶように言ってある。そのときまた考えてみようかと思う。
 最後に書いておくが、べつにおれは『苦海浄土』に対して、水俣病に対して「チッソにも社員がいて、家族がいて云々」などというつもりでこのエントリーを書いたわけじゃない。同時に、水俣病被害者の過酷な運命に深く同情し、祖父を責めようとも、その稼ぎで育った母を責めようとも、また自分自身を責めようというつもりもない。そんなことは他人が決めればいい。
 ただ、読み終えた『苦海浄土』を前に、おれは語らずにはおられなかったし、おれの根拠のようなものを提出せざるをえなかった。よくわからないが、そういうことなんだ。よくわからないが、そういうことだ。

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…… 『苦海浄土』を読むきっかけになった本。講談社文芸文庫版の解説が収録されている。なにせ同人であり友人だ。渡辺京二は『苦海浄土』にももちろん登場するし、それは紛れもなく行動者としてのそれだ。そして、たとえば上に引用した「役人の飯食えば蛆に……」の下りなど、『評伝 宮崎滔天』で描かれている、近代に反発する農民たちのそれと同じものだろう。

評伝宮崎滔天

評伝宮崎滔天

……『苦海浄土』を読んだあとだと、公害企業主呪殺祈祷僧団も死者全共闘も見え方が違ってくる。なにせその……、患者たち自身が白装束で大阪へ、高野山へ行くのだもの。