石牟礼道子/藤原新也『なみだふるはな』を読む

なみだふるはな 『苦海浄土』三部作を読んでいて、福島の原発でおきていることを思い浮かべずにはおられなかった。その著者である石牟礼道子さんはどう見ているのだろうか。うってつけの本があった。藤原新也との三日にわたる対談だ。藤原新也といえば、おおよその著作というと言い過ぎだけれども、わりと本の山の一角を占めているし、おれが持っているエロくない写真集はすべてこの人のものである。
 が、なにかこう、藤原新也には油断できないところがあって……。

 ということは、『黄泉の犬』の感想で書いた。そうか、『苦海浄土』以前に少し水俣病について触れていたのだ。まあともかく、確かなところはたしかだけど、うっかりついていくわけにはいかねえな、という人なのだ。おれにとってはね。
 して、2011年6月13日から3日にわたる対談である。福島で起きていることについて……さて、非常に冷めた物言いで申し訳ないが、おれには予定調和のやり取りに見えてしまった。そして、藤原新也の持ち出す放射性物質に関する数字に関する疑念。……疑念といっても、こちらになんらかの根拠があるわけない。ただ、おれに確かめるすべも学もない以上は、棚上げしておこうというだけのこと。そんなことが気になってしまう。
 それでは、石牟礼道子はどうか。やはりこれも、『苦海浄土』や多田富雄との往復書簡の中の石牟礼さんであり、ぶれない感じは強い。

石牟礼 町の有力者たちが集まって、自分のところは田舎だと思い込んでいますから、やっぱり近代化というのが大変魅力的に思えて、世の中が開けるのだと。わが家でも言ってましたね。「道というのは世の中を開く始まりぞ」といって、私にまで「道子」とつけた。名前を。

 近代的な「会社」ができることで道がひらけ、電気が通り……という時代の話。なるほど、道子さんはその名の通り水俣病、公害問題の道を開き、また自らの道を歩んでいる。むろん、東電はチッソと変わらぬ国策企業であり、政府はなんにも変わっちゃいない。そして失われたものに深い悲しみをそそぐ。怒りの火がないわけでもなかろうが、どちらかといえば滅び行く世への諦念を強く感じる。とはいえ、『苦海浄土』四部の話など出てくるのだから、強い。
 と、いうあたりなのだけれども、おれがこの対談で面白いな、感じたのは、子どものころニッケイを噛んだ話だとか、椿の油で料理をする話だとか、山でヤマモモを採る話、ビワをくすねる話、ブロッコリーが苦手だとか、そんなところだ。
 紋切り型といえば紋切り型だろうし、年配の思い出といえばそれで済む話だろう。そこから河川や海辺をコンクリートで固めてしまい……となれば、聞き飽きたところでもある。だから、面白いといいつつも、なにやら「うーん」というところもある。チッソの孫はそう思う。一方で「そうだったんだろうな」と思い、もう一方で「そんな理想郷みたいな話をされても」と思い、また一方で「勝手にそれをその世代で終わったことにしないでくれよ」という思いもある。とはいえ、おれはコンクリートの水辺ですらよく遊ぶ子でもなかったし、自然のありよう、環境のありようについて学のあるわけでもないし、「魚が減ったというのは水質の問題もあるかもしれないけど漁業のあり方、乱獲なんのもあるんじゃないっすかね。いや、インターネットで読んだだけだけど」くらいしか言えない。
 とはいえ、こいつはいい本だ。というのは装幀がいい、冒頭の藤原新也の写真がいい、震災翌月に書かれた石牟礼道子の「花を奉る」がいい。それだけでも価値はある。おれはそう思う、が。

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