渡辺京二評論集成1『日本近代の逆説』を読む

日本近代の逆説―渡辺京二評論集成〈1〉

日本近代の逆説―渡辺京二評論集成〈1〉

 意識をうちに向けている限りは薬価が高くてドン引きしたジプレキサの効き具合や、ゾロに変えてしまった薬に対する変化などが一番の問題になる。意識をそとに向けてまず問題になるのが仕事のことと将来の絶望である。
 それらをどこかに棚上げしておいていくつかの関心事があるのかといえば、ある。そのうちの一つが、維新のことだ。
 維新の会、というのだったか、現代政治でもあり、もちろん大河ドラマじゃないが明治維新もある。しかし、いちばんの興味ある維新は、幻の第二維新、挫折した革命のことだ。一つにそれは西郷隆盛による明治十年戦争であり、あるいは二・二六といってもいい。現在の維新を唱える人間はそこのところをどう考えているのか。……と、問う前に、おれが西南戦争を、昭和維新をどう捉えるか、ということだ。
 ……と、書いてしまっている時点で、ずいぶんと「ある種の見方」をしているように思える。が、「ある種」がスタンダードなのか異端なのか、多数派なのか少数派なのかわからない。それはおれにベースとなる歴史の学が、政治の、思想の芯がないせいともいえる。ゆえに、読んできた本の影響は大きい。文章のリズムと、根底のところにあるなにか、これが一致してしまえば、鵜呑みにする。鵜の目鷹の目といきたいところだが、飲んでしまう。ただし、よく咀嚼していないし、本当に栄養になっているかは怪しいところだ。
 というわけで、そのあたりの歴史観について、「その目誰の目?」と言われたら、ひょっとしたら渡辺京二の目かもしれない。ちなみに、おれが渡辺京二の根底のところにあるなにかにある種の信頼を覚えるとしたら、ある種のアナーキズム肯定であり、わりと昭和初期の右翼にやさしいところかもしれない。まあ、権藤成卿については「今日ことさらにわれわれが問題にしなければならぬような、思想的ないし理論的な問題は何もふくまれていない」とバッサリだったり。

彼が国家を自己疎外的な感覚でとらえていたことは明白であろう。

……「社稷乃ち国民の衣食住」という彼自身の簡明な定義によって明らかといっていい。国民とは権藤の場合本義的には国民をいうのだから、要するに農民が日々暮らしを立てている営みが社稷なのである。

帝力われに何ぞ関わらんと鼓腹する下級共同体民の生のありかた(すなわち社稷)とは、なんら「無政府社会」を意味するものでなく、このようなアジア的専制権力と相互補完するアジア的下級共同体における一側面にすぎないのである。

 権藤の文章は柳田国男に似ているという。著者目を隠したらわからんくらいだという。その温和さが、昭和維新の青年たちに持ち上げられたところにアイロニーがあるという。
 と、いきなり権藤の話をしたが、本書……まあいろいろの寄せ集めなのだけれども、北一輝西郷隆盛とその他、という感じか。その他はほかに岡倉天心石光真清(!)だったりする。おれなど石光真清の手記は一種の冒険小説としてどれだけ夢中で読んだかわからない。

しかしつきつめていえば、彼は異民族共棲の姿のなかに、大衆の日常的な生が露出するさまを認めて決定的に心魅かれたのだろう。

政治的なインタナショナリズムによっても政治的ナショナリズムによっても表現されることのない、大衆のナショナルであると同時にインタナショナルであるような生の実体、石光真清の“ナショナリズム”が解体された先に存在しうるものがあれば、それはそういうものでるほかはなかった。

 とか考えていただろうか? 考えてなかっただろうなー。
 と、西郷の話にしよう。大川周明が尊敬してやまぬ西郷(……と、著者は大川の西郷観なんぞ「ふふんっ」という感じなんだけれども、まああれは信仰じゃねえかと思うが)、おれはあまりよくしらぬ。司馬遼太郎の小説で読みました、くらいだ。
 その西郷の逆説、矛盾とはなにか。

 実体として利害の体系である市民社会を指向しながら、幻想として共同体的な正義が貫徹されてあるものと擬制しなければならぬというこの絶対矛盾は、わが近代史をつらぬく基本的逆説となった。

 ようするに、西洋の近代国家に伍するために、利害の体系としての市民社会いうもんを作らなきゃいかんが、一方で錦の御旗をおったてて、国民は天皇の赤子だと、天皇を中心とした共同体の幻想みたいなもんを利用せにゃならんかった。そこに矛盾がある、と。で、西郷のように中世的とまでいえるような感覚の持ち主は近代に反するものであった。ゆえに対立し、敗北した。しかし、一方で、抜刀隊の歌じゃないが、偉大なる敵であり、敗北者であるという扱いをしなければならなかった。これがまさに大きな逆説の表れじゃあないか、と。
 それでもって、北一輝も明治国家は民主主義国家であると前提にして、天皇なんていうものはたまたま担がれた神輿にすぎない。天皇の国民でなく、国民の天皇にすぎないと。たまたま維新の情勢下で再び担ぎだされたにすぎない、と。つまりは、あんたは初めから、わしらが担いでる神輿じゃないの。国がここまでなるのに、誰が血ィ流しとるんや。神輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみないや、のう! というわけである。え、違う? でも、「土人部落の土偶」よりマシじゃね。「土偶は神輿より引き出して以て粉砕するのみ」って北が。
 ……ひょっとして、『仁義なき戦い』の神輿云々って天皇のことじゃね? いや、違うか。昭和天皇は泣き真似してまで血を流させるタイプじゃあなかった。おれ思うに、もうちょっと自分の立場に諦念のある……。意志を示したのは二・二六と終戦か? 

 昭和前期における政治動向を戦争という軸にそって解析するならば、そこには三つの位相が区別されることがわかる。ひとつは重臣層を代表する支配エリートであり、ひとつは重臣層を代表する支配エリートであり、ひとつは軍幕僚・右翼を代表とする中間イデオローグであり、さらにひとつは基層生活民である。

 明治国家を創出した層の目的は、国家による資本主義の創出だった。天皇はもとよりシンボルにすぎなかった。が、基層生活民の欲求、あるいは二・二六将校たちが望んだ君側の奸を廃しての親政への期待とか……なあ。なんかわかるような、な。
 じゃあ北一輝はというと。

 北一輝とは何物であったか。この問に私は、アジア的国家という伝統を人類史の普遍的課題と結合させようとして苦闘した思想家と答える。これが北の一切であって、あとはすべて付録である。北はその意味で、まことにオーソドックスな人出ある。

 話は変わるが、近代化という問題がある。

 ヨーロッパ型の資本制市民社会は、アジア諸国に導入されるさい共同体民による激烈な抵抗に出会った。市民社会的所有の法概念はローマ法に基礎をおいているが、ドストエフスキイがローマ法的観念を「万人は自分のため、自分は自分のため」と歪曲的に表現したとき、彼はこのような共同体民の反感をわれ知らず代弁していたのである。アジア的共同体の基層民は資本制市民社会の論理を、だまし得だまされ損の奇っ怪な取引きの体系と感じた。彼らにあっては個が共同体においてしか存在しないために、分立する個の利害はゲームのルールのごときとりきめによってしか調整できないとする西欧的論理が、まことに異様なものに見えたのである。

 このゲーム、建前を理解しないところに、というか、「だまし得だまされ損」を理解した上で、だからこそのルールだろうというところを理解しないところに、西洋のやり方(べつにそれが正しいわけじゃねえが)との齟齬を生じ、ときには戦争を引き起こす。このあたり、なにかこう、日本人論(アジア人論)として、わかるような気もする。

彼らは市民社会における人間関係がだまし得だまされ損の関係であること、法とはそのだましあいのルールの集成であることが理解できなかったのではない。彼らはそのことをすみやかに理解した。彼らが理解困難だったのは、そのようなだましあいの関係を人間の本性と得心し、だまし合いに合法的なルールの枷をはめることが社会の最善の構成法だとするような理性の狡智である。つまり彼らは人間がたがいに狼であるのが市民社会の本質だという話の前半を完全に理解して、かんじんな、だからこそ狼同士にはルールが必要なのだという後半の話は耳に入らなかったのである。

 このあたりはなにか、今もって、という感じは否めない。たとえば、そうだな、こないだのオリンピックのレスリング除外問題。マスコミの論調というか、世間の論調というのは、「ああいう汚い世界にはそれ相応のことをしなければ損するだけなのだ」というような感じだったかと思うが(個人的にはレスリングみたいな歴史のあるもんに、たかだか一時的に女子レスリングで天下とってるだけの日本に立ち入る余地があるのかどうかはなはだ疑問だったけど)、そこんところで、ロビイングだとかそういうものに卑しさを見ている、見て終わっている。そこで「ルールの必要性」に耳をふさいでいるようなところはなかろうか。うーん、この、なんともいえないが、そんな気がする。そういう感覚はまだ続いている。一方で、外交の場じゃなければ、根回しとか好きなのにね。

……市民社会の論理のうちには、人間社会は高貴な欲求にうながされたときかえって愚行に陥り、いやしい欲求を承認してそれをコントロールしたときのほうがうまく行くという“知恵”がかくされている。

 とは、磯部浅一について著者が述べた所に出てくるが。さて。
 と、順序ばらばらにとりとめもなく引用してきたが、本書も寄せ集めであって、ただ根底になにか一本あるのだからいいだろう。他に、近藤憲二が故郷で父親にお前のようなことをしていると、西南戦争くらいのことはしなきゃいかんだろうから、そのときはせめて一方の旗頭になれよと言われて参った話とか、一般的に氏族反乱とされている西郷軍に民権派ながら参加した熊本協同隊の話とかも入っており(まあ宮崎滔天の評伝で読んだ下地もあったが)、いろいろの逆説を楽しめる。なにより、あんまり引用していないが、西郷隆盛の人となりについて、あるていどのあたりをつけられたように感じられたのは幸いであった。
 して、この著者のヒット作(?)であるなんとかの日々のなんとかを読む気がしないのはなぜだろうか。まあ、いずれ、としておこう。

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