ユニクロの社長は愛を語らない

 ――付加価値をつけられなかった人が退職する、場合によってはうつになったりすると。
 「そういうことだと思う。日本人にとっては厳しいかもしれないけれど。でも海外の人は全部、頑張っているわけだ」

 世界は均質化していく。日本という国が地政学的な(?)ボーナス・ステージである高度経済成長を終え、もはや日本人であるだけで安穏と富をむさぼれる時代ではない。技術進歩(技能の集約化? 少数化?)で、ごく少数の金持ちと、佃煮にして煮るほどの貧乏人に分かれる。おれはおおよそこのユニクロの社長の見る世界と同じような世界を見ているように思える。おれがコルナゴのACEでサイクリングしながら、ソニーのα65で写真を撮っていられるのも、あと少しの間だけだ。
 そうだ、おれは佃煮の人間で、そこが柳井正とは違う。高卒三十代、食っていける技能とくにない。なによりも向上心とやる気がない。労働というものが嫌いでならない。人付き合いが嫌いでならない。年収100万円すらあやしい。今の職場を失えば、自死か路上か刑務所だろう。
 なので、平均的な部分で、たとえば家庭などを築いて、必死に歯を食いしばって生きている人や、まだ未来に希望を持てる若者、なにはともあれ、やる気、元気、それにいわきのある人間とは大いに違う。おれは大いに諦めてるし、失望している。柳井氏が1億円のその上から話をしているとすれば、おれはある意味、100万円のその下から話をしているのかもしれない。
 そんなおれは思う。柳井さん、あんたはなんでそんなに人間が嫌いなのだろう? 愛を語れないのだろう? あらゆるものは労働の価値の基準におしこまれなければいけないのだろうか。あなたの言う「海外の人は全部」、あなたの価値観の中に放り込まれ、新たな意識の高い労働者となって、ユニクロで服を売ったり買ったりしなくてはいけないのだろうか。
 むろん、柳井さんはそんなことを言っていない。べつに年収100万円の生き方、それ以下の生き方を否定するとは言っていない。それは確かだ。たったこの程度の記事を一つ二つ読んだところで柳井さんの考えがわかるとは思えない。発言の切り取り方だってあるだろう。だけど、これを読むかぎりにおいて、やはりおれのような愚者、無気力者は死ぬべきだと言ってるように思える。おれのような愚かな日本人、そして世界の人間。のんべんだらり、だらだらだらりと暮らしていきたい人間はどうなるのだろうか。いや、「海外の人は全部、頑張っている」のだっけ。おれは神奈川県からもろくに出ないし、日本国から出たこともないし、一生出ることもないだろうからわからないけどさ。
 すべては資本主義の価値のなかに放り込まれる。クソの世界のように思える。今現在のおれもクソまみれかもしれない。でも、おれはこのクソが突き進むのをよしとしない。なにか、もっとマシなものはねえのかと、向精神薬のをきめた頭でぼんやり夢想する。夢の中のプレーヴェはどんな顔をしているのだろう。カウントダウン3、2、1、昼休みはおしまいだ。

 ところで、花田清輝よ、蜘蛛の巣のかかった何処かの隅にいるのんべんだらりとした革命家は、いったい、如何なるところから生じたのか。その答えも、最も単純である。それは、彼が革命家だったからである。彼は、革命家となった彼の原則を最後まで貫こうとしたため、のんべんだらりとした革命家として、ただ未来のみを唯一の同盟者としてもつことになってしまったのである。彼は自身を未来の無階級社会よりの派遣者として感じている。しかし、彼のもつ革命方式が組織の中で凄んでみせる革命家たちの方式とあまりに違うので、彼はその生存の時代の実践のなかに席を持つことができず、何処か蜘蛛の巣のかかった古ぼけた隅におしこめられてしまったのだ。このような疎外者を、歴史は異端者と名づけるのだろう。異端者とは、何か。権力を握らぬもの、または、権力を握り得ぬものである。それは非権力者から反権力者に至るまでのすべてを含む。つまり、異端者とは、メフィストフェレス、破門者、反抗者、単独者、デカダン、自殺者、不平家、あまのじゃく、孤独者、潔癖家、予言者、警告家、空想家、おせっかい、おっちょこちょい、こまっしゃくれ、道化、独善家、芸術者、逃亡者、等である。

――「永久革命者の悲哀埴谷雄高