「この、えらく長いの、どうしますか?」


 2013年のゴールデンウィークの終わりの日のことだった。昼過ぎに起きたおれは、床屋に行くことにした。無為に過ごすのは惜しいような気がする一方で、なにかをするには遅すぎる、そんな日のことだった。
 床屋はそんな連中で混んでいた。おれの前に3人のおっさんがいた。おれのあとに3人のおっさんが入ってきた。洗髪、顔剃りつきで1900円、4人ほどの理髪師のおっさんが回している、そんな床屋だ。
 床屋のテレビでは『徹子の部屋』が流れていた。元・高見山が弟子の元・高見盛の、自分の頬をはたくパフォーマンスについて、脳に悪影響がないか医者に相談に行ったとか、そんな話をしていた。そりゃあ気合を入れるためとはいえ、力士の張り手といえば張り手には違いあるまい。
 おれはといえば、そんな話を耳に入れながら、携帯端末で将棋アプリと対戦していた。100段階あるレベルの84番目にあっという間に馬を作られ序盤から押し潰されたおれは、ふと顔を上げた。ちょうど目の前の理髪席で、床屋のおっさんが客のおっさんの頭の上でワカメのようななにかを持ち上げているのが目に入った。床屋のおっさんはこう言った。
 「この、えらく長いの、どうしますか?」
 婉曲的な表現はやめよう。そのワカメは客のおっさんの髪の毛だ。でも、ただの髪の毛じゃない。右サイドで一方的に伸びて、頭頂部をカバーする重要な髪の毛だ。すでに壊滅的な状態であると思しき頭頂部や左サイドの役目を担う、きわめて重要な毛髪に違いないのだ。右サイド無双、客のおっさんにとっては生命線ともいえる勇士たちに違いないのだ。
 それを、ぺろんと持ち上げて、「この、えらく長いの」扱いはあんまりじゃあないですか。メロスだかセリヌンティウスだかよくしらないが、他人事ながらおれは激怒しそうになった。その上、「どうしますか?」はないだろう。彼らには頭頂部から左サイドまでカバーする以外に道はないのだ。その決死の覚悟、悲哀を、床屋のおやじ、あんただってこの道のベテランだろうに……。
 客のおっさんの胸中いかに。かれはただこう静かに呟いたのだった。
 「それは、そのままで」
 自らの生命線を、歴戦の勇士を、「それ」と言わなくてはならぬ悲痛。彼にだって言い分はあっただろう。十も百も言いたいことはあっただろう。泣くも激怒するも自由だったろう。しかし、それを感じさせぬ、静かな、呟きだった。これが今に生きる侍というものかと、おれは勝手に納得した。
 やがておれの番が来た。「どうしますか?」というので、おれは「耳が完全に出るくらいで。全体的に短く」と言った。そして、目をつむると、東海林さだお四コマ漫画で先ほどのやりとりが再生されるので、おれはケープの下でこっそり自分の太ももをつねったのだった……。

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タンマ君 (6) (文春文庫)

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