『森林飽和 国土の変貌を考える』を読むのこと


森林飽和 国土の変貌を考える (NHKブックス)

森林飽和 国土の変貌を考える (NHKブックス)

 はじめに言っておくが、おれは文系の高卒なので、知識の表土どころか岩盤すらない。その上で、この本の感想を書く。

 そもそもはたくさんのブックマークのついている上の記事を読んで興味を持ったのだった。「日本には木が多すぎる?」、「森林飽和?」と。しかし、それと同時に、ある光景が脳裏に浮かんだりもしたのだった。いつだったか、大井川鐵道で大井川沿いを汽車から眺めたことがあった。そのときの、下流の方に生い茂る凄まじい量のニセアカシア(たぶん)。木が生い茂っていれば自然で好ましい状態ではない、そういう気がしたのだった。

 して、本書である。東日本大震災のあとに書かれた本であり、被災地復興にどんな植林を行うべきか、という話も出てくる。が、それゆえにキャッチーなタイトルと、かなり長いスパンで「国土の変貌を考える」ことと、震災復興の海岸林のあり方、そして著者のメーンジャンル? の砂防の話などに分裂してしまっているような印象もあった。が、おれにそんな贅沢を言う権利などない。当たり前のようなことに、いちいち目からうろこが一枚二枚、そんな具合なのだった。

 ところで、「土」と「土壌」は異なる概念である。

 とか言われると、ええ、そうだったの? となる。まあ、そんな小学生? レベルのことから知らんのだから、知らん話ばかりでおもしろい。あと、日本の自然の社会と特徴を簡単にまとめると、

「日本はユーラシア大陸の東岸、中緯度の沈み込み帯に形成された弧状列島である」

 ってことを理解すりゃいいんだ、とか。
 でも、とくにおもしろいのがどのあたりかといえば、「現代人が考えるほど昔の日本人は緑豊かな環境で暮らしてねえよ」(意訳)というあたりだろうか。「昔」っつっても、そうとうに広いレンジでだ。

……かつての里山は「はげ山」か、ほとんどはげ山同様の瘠せた森林――灌木がほとんどで、高木ではマツのみが目立つ――が一般的であった。

……かつての里地・里山システムはすべてが持続可能な社会のお手本であったかのような錯覚が、国民の間に生まれているように思えてならない。実際の里山生態系にははげ山もあった。アカマツの目立つ柴山も草山もあった。そして、このシステムの中に、人々の貧しい生活もあったのである。

 なんつーのか、「森林破壊」というと、近代以降とか現在進行形の破壊を思い浮かべるし、それはそれであるけれども、少なくとも昔の日本はもっと森林から収奪してたんだぜって話だ。考えてみりゃ、家を建てるのも、でかい神社仏閣つくるのも、燃料にするのも、ほとんど木使ってりゃ、人の生きる近くの山ははげて行く。その上、人間の方の数はどんどん増える、技術も進歩する。飛鳥〜平安時代に「古代の略奪」と称される大量消費があって、近畿地方中央の大径木がほとんどなくなったとかいう説もあるそうだ。
 それで、江戸時代とかになりゃ森林や海岸林の整備が必要だとかそうなっても、やっぱりはげ山化は止まらず、明治の林学の第一人者ですら「森が本当に少ない」と嘆くくらいになっていったのだと。
 それが今現在どうかというと、森林の面積だけで言えば、日本は森林大国もいいところだと。量的に緑に恵まれた? 状態は過去何百年なかったぜと。ただ、質がどうか、というところが問題になる。「人工林の荒廃、天然林の放置」。ちょっと田舎いくとたまに見かけるけど、間伐も枝打ちもされてねえひょろひょろのスギが密生してて、風かなんかで折れたりしてるのとかそうだろか。それに、天然林も人が奥山に入りすぎて環境悪化してる問題に、シカの食害だとか。
 そんで、わりとありがたがって保全だか保持だか保存だか保護だか(この本には書いてないけど、なんか意味違うんだよな、たしか)しようとしている「里山」も、本来の里山じゃねえぜって、そこんところも「そうなのか!」てな具合で。里山を保存しようってグループが熱心に間伐とかするけどって。

……しかし、一般の人に樹齢五十年を超えた木を伐ることは難しく、また「もったいなくて伐る気になれない」という。しかし、かつての里山にそれほど大きな木はなかった。二十年も経てば待ちかねて伐採し、利用していたのである。

 と。だから、現在わしらが「里山」思うているのは、「奥山」化してんじゃねえのかって。本来の里山はもっともっと圧がかかってたもんだぜってさ。で、奥山にいるような生き物が里に降りてきて娘をさらっていったりするわけだ。いや、さらわねえけど、そういう問題も起こるんじゃねえの、と。

 あとは、土砂とか海岸林の話とかか。この写真は小田原あたりで撮ったもんだけど、もろずっぽしこのあたりの写真がこの本に載っててさ。このあたりの変遷が。で、最初に1935年ごろの様子ってのがあんだけど、100メートルくらい砂浜があって海水浴客でいっぱいなの。それが、今や大きな石がごろごろしてんの。あと、冒頭におれが思い浮かべたニセアカシアについても、こんなこと書いてあった。

 たとえば、よく採り上げられる河川での外来種ニセアカシアの繁茂は土砂移動の停止だけでなく、河床低下によって高水敷の比高が高くなり、乾燥してしまうことの影響も大きい。それがなければ、ニセアカシアの侵入速度はもう少し緩やかなものであったろう。もちろん高水敷の破壊があれば、ニセアカシアは侵入しない。砂礫堆(砂州)や高水敷の破壊は河川らしい水生生態系の維持にも欠かせないということである。

 そうだ。なにを言ってるのかわからんが。まあ、しかし、あの大井川の乏しい水量とか思い浮かぶが。で、その原因というと過去の(高度経済成長期の)砂利あさりに、もちろんダムもある。でも、森林も関係するぜ、と。森林飽和も関係するぜ、と。……このあたりはようわからんので、分かる人が本書で確認されたい。
 でもって、なんだ、その、洪水を起こさぬために土砂流出を決してゆるさぬという時代は過去のものになったと。

山地保全の新しいコンセプトは、土砂災害のないように山崩れを起こさせ、流砂系による土砂を供給することとなるのだろうか。少なくともそのような劇的な発想の転換が、新しいステージで要求されていることに違いない。

 破壊による死は新生の始まりなり! いや、弥生時代以降、「環境」の一部となった存在として、知恵を絞らなきゃいかん、コミットメントしていかなきゃいかんという覚悟が求められていると言えようか。森林について言えば、もはや放置、放任して「自然のまま」と言ってはおられない、と。
 ……このあたりはどうなんだろ、意見が別れる気もするが、ようわからん。この本とか読んだあとだと、異議なし、という気になるが。森に適度な利用圧を、と。といっても、人間社会の優先事項はいろいろあって、「じゃあ国産材をたくさん使おう」ってのが(聞こえてはくるが)、どこまで実現できるのか、とかね。それに、森林やら海岸やらも本当にいろいろの要素の絡まりあった複雑なもので、そりゃあ立場によっていろんなデータ、いろんな説も出てくるだろうね。
 で、著者はとりあえず、「日本の森林は現状減ってない、むしろ量的に悪く飽和している」ってのを土台に話をしようぜって、ずっと言ってきたらしく、この本もそういう本だといっていいか。ちなみに、東日本大震災津波後の植栽はやっぱり照葉樹中心じゃなくてクロマツマツノザイセンチュウにやられないやつ)中心で行こうぜって主張してた。ああ、あと、飛砂の話とか忘れてた。まあいいや、おしまい。