日本のアゼフ? 『スパイM』を読む

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 ひとりの男が死んだ。昭和四十年九月四日のことである。
 翌日、ごく内輪だけのささやかな葬式の手はずが整えられた。ところが、式の直前になって、予期せぬ事態が持ち上がった。役所が火葬許可証を出せないといいだしたのである。男の本籍地に問い合わせたところ、該当する戸籍が存在しないというのだ。

 Wikipediaをうろうろしていたら、wikipedia:東方勤労者共産大学(クートヴェ)の項目に行き当たる。そこで目にしたのが"特高警察が日本共産党に送り込んだ「スパイM」として知られた松村昇こと飯塚盈延も卒業生であった"の一文である。フハッ、日本にもアゼフがいたのか!


 というわけで、さっそくこの飯塚盈延(いいづか・みつのぶ)について書かれた本、『スパイM』を手にとった。非常時共産党の幹部にして特高警察のスパイ。その人物像は……。やっぱりアゼフに似ているかもしれない。思想的な主張はあまりせず寡黙、しかしながら実務は着実にこなす。人の信頼感を得る、胆力のある人間だと思わせる。いささかだらしないところも、主義者にあるまじき行いも許容される。

「Mが中央委員の中で信頼されていたのは、風間がMを信用していたからだ。風間も岩田も全面的に信用していた。三人の信頼関係が揺らぐようなことはなかったですね。Mは理論とか政策的なことはいわなかったが、何か信頼させるものがあった」

 とは宮川寅雄の証言。
 そんな人物が、上記クートヴェ帰りで風間丈吉委員長とツーカーなのだから、疑われようもなく党の中で力を持ち、資金部門(家屋資金局)を取り仕切る。必要以上に情報を互いに持ちあわないという秘密結社の鉄則から、ほとんどフリーハンドのように動ける。そして、特高警察「の」共産党にとって厄介な存在は「あいつはスパイだ」と疑いをかけ粛清していく。一方で、警察の知らないところでギャング事件などを影から指示したりもする。

Mの転向

 では、Mはいつ、どうして、特高警察のスパイになったのか。具体的には検挙されたうえで、スパイ使いの名手・毛利基にスカウトされたのだが、その萌芽はクートヴェ時代に芽生えていたと、本書では推測する。

 「父は、人間は平等だということをよくいっていました。私は、父が共産党に入党した理由は、人間は平等という願いからだと思っている。『党が絶対にいいと思って入ったの』と聞いたら、父は『そうだ』といっていました。(Mの次女)

 この思いが裏切られるなにかが、クートヴェであった。没落武士の家に生まれ、学校で半分を最高評価である「10」、残り半分が「9」でありながら、進学できず労働運動に見を投じていったM。見込まれてクートヴェに送られたM。そこでなにがあったのか。なにを見たのか。具体的に言えば、スターリンとその権力闘争の醜さであったといえようか。とくに、トロツキー派への攻撃の醜さ、苛烈さ、スターリンユダヤ人ヘイト……。そういったものに裏切られた思いがあったのではないか。
 ……って、(Mの次女)の証言だ。ほかにも当時の特高警察の証言、共産党員の証言なども多々ある。だからこそ、それゆえに、本書はもう一歩踏み込めていないな、という気もする。たいへん貴重な話を集めてはいるが、どちらか一方に強く肩入れしたり、ことさらMを怪人物と描いてみたりという過剰さはない。というのもおれの趣味にすぎないが。

どのくらいアゼフ?

 アゼフと比べると、プレーヴェ殺しほどでかいことはやってない。あくまで特高警察のスパイであるという面が強い。が、本人はこの両者を手玉に取る状況を自由の境地のように思っていたふしがあり、やはり只者じゃあない。そして、長い年月をかけて『空間論』という「精神と物質」についての論文を記していたりもする。ただ、一方で、死ぬ前にはこんなことを語っていたという。

 「人間は、生まれてこないのが最も幸せだ。しかし、生まれてきた以上は、どんなことがあっても生きるべきだ。不慮の事故で死ぬべきではない、それは注意不足だ。また、自分で生命を絶つべきでもない。死ぬまで生きるべきだ。

 さすが革命的警戒心をもって死ぬまで生きた人間のいうことだ。そうじゃなきゃ「不慮の事故で死ぬべきではない」という言葉は出てこないだろう。そう、Mは死ぬまで生きた。熱海事件(非常時共産党一斉摘発)、そして風間を売ったあとも逃げおおせた。官からも、パルタイからも。そして、兄の事業を手伝ったり(兄宛の事業についての長い手紙が残っているが、小型のコルセットを作れと指示した晩年のアゼフを思わせる。リアリスト、実務者、なのだろう)、なにもせず戦後三年釣りばかりしていたり(このあたりは宮崎滔天を思わせないでもない)、戦後のどさくさで偽の戸籍を手に入れたりと、いろいろやってるんだ、これが。その極めつけは、兄弟の仕事で渡った満洲で「元軍人、元政府役人、蒋介石系中国人などが参加」していた秘密結社に関わっていたらしいというあたり。いやはや。
 アゼフといえば、サヴィンコフは? となるが、風間丈吉がそれにあたるのだろうか。ただ、いくつか風間丈吉の著作からの引用もあったが、やけにさっぱりした感じであって、そこに違いはあるような気もする。もっとも、後の人間が描いたサヴィンコフ像におれがひっぱられているだけかもしれないが。
 まあ、いずれにせよ、非常時共産党のやることなすこと、やはり古今東西のこの手の組織(まあ、今現在の日本共産党は入らないだろうが)に似てくる。アジトでの生活も、身なりをきちんとして、毎朝出勤するように行動せよ、などとは東アジア反日武装戦線でも言われてたことだし、一方でブルジョアの身なりで敵を欺く、などということは社会革命党戦闘団でもやってたことだ。

 「Mさんは、非合法活動の仕方についていろいろ指導してくれた。服装はたえずキチンと身ぎれいにしておけ。下宿先には挨拶を欠かすな。下宿ではゴロゴロ寝ていてはダメ、毎朝決まった時間に家を出ろ……

 とは中堅幹部の話。まるで「爆弾事件」の犯人みたいな生活と言うその「爆弾事件」は「狼」のそれだろうか。

エキサイティング共産党

 しかしなんだ、共産党もエキサイティングだったんだな、と。おれは大杉栄とかギロチン社あたりのほうが好きで、別に興味ねえなってところで、なんかの本に載ってた笠原和夫の未映画化シナリオ「実録・共産党」とか読まなかったしな。台湾で警官を射殺したあと自殺した渡辺政之輔とか、興味深いかもしれない。ちなみに布施辰治が遺体を引き取りに行ったWikipediaにあるが、ここにも名前が出てくるか。布施辰治についてもなんか読んでみようか。山崎今朝弥に比べたら真面目そうだが……(というのが、アナーキスト共産党とのおれの興味度の差みたいな)。
 射殺といえば、特高警察っつーか、警察官は当時拳銃で武装してなかったのな。これは知らなかった。共産党の地方幹部が集まったところを一網打尽、という熱海事件にしろ、個別の逮捕劇にせよ、共産党員のほうが拳銃で武装してるから、警察官マジ命がけ。決死隊のムードというのが、そういうものなのか、と。まあ、捕まえたあとは知っての通りのひでえ拷問して、殺しもありなわけだけど。あとは、特高警察も日本のお役所であって、公式にスパイを送り込むような真似はできず、そのあたりはオフラーナともその他秘密警察ともやや違うもんなのかな、とか。そういう意味では、異例の叩き上げで出世したスパイマスターwikipedia:毛利基なんかも興味深くはある(当時のインタビューで普通の警察とは違う攻性の組織でならねばならない、みたいなことまで言ってる)。Mと毛利二人主人公の話などあれば面白いかもしれない。まあ、とりあえずはこんなところで。

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