長年の疑問に答えてくれるか? ―『肉食妻帯考』を読む


なんで坊さんが妻帯してんの? ってさ

 なんで(浄土真宗以外の)坊さんが結婚して子供作って跡継がせて高級車乗ってんの? ……って、高級車関係ないけど、ちょっと仏教関係の本など読んで、仏教に興味持ち始めてから抱いてる疑問。これ、便利なインターネットで各宗派のサイトやお寺の人のサイト見てみても、いまいちわからんかった。どうにも歯切れが悪い文言が並んでた。
 でも、なんというのか、べつにだからといって「現代仏教はあかん」とか言えた立場でもねえし、そこまで現代の寺や僧侶に興味ないわけ。いや、ちょっとはそういう気持ちがないわけでもないんだけど、純粋に「なんで?」ってのがあって。明治維新があって、太政官布告でって言われてもさ。たとえば、国に「朝飯をパン食にしてもよろしい」って言われても、今までシリアル派だったやつがパン食を強制されるわけでもねえよな、というか。

太政官布告っていうけれど

 そう、よく引き合いに出されるのは明治五年の太政官布告

肉食妻帯勝手タルベシ

 これで、もとより肉食妻帯をしていた浄土真宗以外もみなそうなっていった。ここのところが不思議でならなかった。おそらくは、どの宗派にとっても大問題の一つであるはずなのに、大論争とか起きなかったのか。あるいは、各宗派が公会議みたいなのをやって方針を打ち出したのか。そんな話も出てこない。いったい、当時どう受け取られて、どう決まっていったんだ。はっきり言って、べつに今の坊さんが肉食しようが酒を飲もうが女とやろうが男とやろうが是非についてはどうでもいい。どうでもいいけど、そうなっていった過程に興味がある。
 と、そこでこの本を見つけた。

肉食妻帯考 日本仏教の発生

肉食妻帯考 日本仏教の発生

 おれは肉食の方はあまり興味ないが、妻帯については上のとおり気になっていた。タイトルズバリだし、おれの疑問に応えてくれるんじゃねえかと。著者がどんな分野の人で、すでに故人で、これがその遺稿を集めた本だとかそんなことは知らなかった。ともかく妻帯化への過程がわかるんじゃねえかと思って手にとった。

結局、あいまいな話だったわけだが、しかし!

……教団ごと、宗派ごとに多少の相違はあるものの、結局、布告後十数年しての明治中期以降、日本の仏教界はなし崩し的に肉食妻帯の容認へと方針を切り換えていくことになるからである。そしてその方針転換のプロセスにおいて、公正で衆知を集めた議論が行われた形跡は、ほとんどない。

 が、結局こうだったんだと。
 と、おれが失望したかというと、そんなことはなかったわけで。もっと興味深い話があふれていたんだな。
 実は、「肉食妻帯勝手タルベシ」の布告というのは、「自由にしていいよ」という放任に見えて、社会制度からいったらむしろ逆だったという。すなわち、江戸時代の支配構造に檀家制度として組み込まれていたわけじゃん、仏教。それが、明治維新神仏分離廃仏毀釈と、権力から引き剥がされる、弱体化させられる。そして、「肉食も妻帯もする普通の臣民になれよ」というのが、例の布告の意味するところだったってんだ。「身分から職分へ」ってことなんだ。
 別の布告では「坊主も名字つけろよ」ってのがあって、そこで生まれたのが釈由美子の釈だとか、梵英心の梵だとかの仏教っぽいやつだったとかいう(剛力彩芽の剛力あたりはどうだろうか?/って、本書で挙げられているのは「釈」のほか「禿氏」、「仏子」、「法華」、「般若」、「横超」さんといった「寺院姓」)。 まあ、それはいいとして、「勝手タルベシ」は僧侶を俗人籍へと移すための一つの方策だったというわけだ。いやはや。

そもそも国家仏教だったわけだが

 しかしまあ、江戸、江戸といっても、それより前のずっと前から日本は「得度に介入する国家」だったわけだと著者は言う。太政官の印が捺された度牒をもってはじめて正式な僧侶として認められるって体制じゃなかったかって。10世紀はじめのころなんて、重い納税から逃げるために私度僧だらけになったなんて話が残ってるじゃねえか、と。私度僧はともかく、だいたい権力側だったじゃねえかと。それで、福沢諭吉先生なんかは痛烈な仏教批判をしている。

「近日に至りては政府より全国の僧侶に肉食妻帯を許すの令あり。この令に拠れば、従来僧侶が肉を食わず婦人を近づけざりしは、その宗教の旨を守るがためあらずして、政府の免許なきがために勉めて自から禁じたることならん。これらの趣を見れば、僧侶はただに政府の奴隷のみならず、日本国中に宗教なしというも可なり。」

 明治より前に破戒僧が国から処罰を受けるのも、逆に「勝手タルベシ」されるのも、常に受け身じゃねえか。そんなのは宗教とは言えねえだろ、と。でもまあ、福澤先生のものの見方は、西洋的な宗教観により過ぎているかもしれない、とも。でも、一見自由にしろっつー内容の布告だけど、国家の意図に左右されてる点では一緒じゃねえかってなぁ。

それで、浄土真宗なんだけど

 それで、妻帯をやっていた浄土真宗なんだけれども、これが明治以降仏教界をリードしていくことになるというか。まあ、なんでも洋式がいいね!の時代のことだ、浄土真宗一神教的な側面、「内的な信心」を重くみるあたりが、時のインテリたちにうけがよかった。新時代にふさわしいとなった。『出家とその弟子』がベストセラーになり、『歎異抄』も大正の頃に流行ったと。それでもって、キリスト教プロテスタント)という新しい外敵との戦いに、真宗の「信仰のみ」のありようが武器になったとも。いやはや。
 それで、さっき言ったみたいに、他の宗派も肉食妻帯になし崩しになっていくわけで、著者はこれを「日本仏教の真宗化」、あるいはもっと厳しく「内容なき真宗化」と呼ぶわけだ。その結果として、かつては真宗を嫌悪、侮蔑していたことを忘れたふりをして、甘い果実を手に入れたと。そして、その選択の結果として、日本人が仏教に対してなんとなく軽んじたり、胡散くさく見たりする不信感に繋がってったんじゃねえか、と。うーん、そういうところはあるのかもしらん。さらにいえば、真宗以外の僧侶の妻という立場、「梵妻」、「大黒」といった存在がどう扱われてきたかとか、フェミニズム的な側面からも論じられたりしよう(というか、この本あった棚の周りにそれらしき本が数冊あった)。
 でも、親鸞は決して最初の一人じゃなかったよ、妻帯の例なんていくつもあったよ、と。それと、その後の真宗がどう理論武装していった(知空の『肉食妻帯弁』)とか、元禄の頃に勢力を拡大したかとか(ただし「山の民」、「川の民」といったマイノリティのための教団から、マジョリティのための教えを説くようになっていったとか)、そういう話も興味深かったけど、妻帯の話から逸れるので各人読まれたい。

肉食の方は?

 と、本書のタイトルの約半分は肉食についてだった。これについても、「汝身ハ我腹二入バ、我心ハ汝ガ身二入レリ」って鮒に言うみたいな、ぐう畜をぐう聖が食うことで成仏させられる的理論が紹介されてたり、いろいろおもしろいわけだ。そんでそれは神道との習合じゃねえかとかいう話もおもしろいわけで。あと、法然が「仏教にいみといふ事なし、世俗に申したんやうに」とか言って、仏教にタブーはねえよ、世俗の領域だよとか言ってたとかさ。あとはそもそも殺生と肉食は別ものじゃねえかとか、まあ頭のどっかにしまっておこうと。

終わりに

 とまあ、日本仏教の妻帯についてある意味で「わかった」。一方で、やっぱりどっかもやもやしたもんも残る。そんな印象。べつに厳密な仏教国におまえの国の仏教はどうなってるんだ? と言われたところで、「すみません」というでもなし、「いや、これこそが日本なのですよ」というでもなし、というところも読む前と変わらん。変わらんけど、まあ例の布告の政治的というのかな、そういう意味合いについては目からうろこやったし、長い時間をかけた親鸞の勝利(まあ親鸞は勝利とは思わんかもしらんが)みたいなものはなんとなくわかったかな、と。しかしまあ、べつにおれはどっかの宗派に帰依したりしてるわけでもねえけど、外から来たもののいいとこ取りして、リアルな世俗優先みたいな、まあ日本教みたいなものが、いいのかわるいのかわからんね。それで、そのいいかわるいかが、何に対してか、おれはそれが想定できないなとか、そんなところを思ったりもした。おしまい。

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誤解された仏教 (講談社学術文庫)

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最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

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