ジャック・ケルアック『ザ・ダルマ・バムズ』を読む

「なあ、おれ、今ホイットマンを読んでるんだ。お前達、
 奴隷達よ、元気を出すのだ
 そして、よそ者の専制者共をふるえ上がらせてやれ
 という句を知ってるか。ホイットマンは、これこそ真の民衆詩人の態度だといってるのだ。太古の砂漠をさまよう超俗の民衆詩人だ。これこそ禅の風狂の精神さ。要するにだな、世界中をリュックサックを背負った放浪者で埋めつくしてやるのだ。ダルマ・バムズで。……

 1950年のビート・ジェネレーションの旗手、元祖ヒッピーによる放浪・登山・仏教小説、とでも言うべきか。おれは鈴木大拙をはじめ、いくらか仏教の本を読んだりしたくらいであって、なんというか著者のおそらくは薄いところの仏教観、仏教語りが水にあってしかたなかった。ひょっとするとケルアック(レイ)もジェフィ(ゲイリー・スナイダー)も本物かもしらんが、いったいなにが本物だというのか。とか、そういうところ。ともかく、何度も主人公のレイが「悟った!」みたいな状態になる、その描写が決して嫌味な感じもしなくて、楽しそうなんだよ。その軽さがいい。
 でも、そればっかりじゃないんだよ、描写にいちいちいいところがある。

「レイ、お前、人に物をやるというのは一種の特権だってことがわかんないのかい」
 しかし、彼の人に物をやるというやり方は、実に感じがよかった。恩着せがましいところや、クリスマスの贈物的なところが全くなく、いつもうら悲しい感じがした。彼のくれる物はだいたい、古ぼけた使い古したものだったが、必ず役に立ち、そいつをくれた彼のことも思い出させてしんみりさせるのだった。

 そしてまあ、引用はしないが、自然の描写、植物、動物、太陽、星、そういったものの美しさであったり、そこに没入する自分であったり、そのあたりもうならされるところもある。とくに第二章の「マッターホーンの雄叫び」などは読んでいてワクワクさせられる。それに食い物の描写が、これまたうまい。自然の中でジェフィが作る山の料理の美味そうなことときたらない。
 それで、おれも、ああいいねえ、行きたいねぇ、旅、でっかりリュック背負って、大自然と一人対峙して……って思うかというとまったくそんなことはない。まったくというと嘘になるかもしれないが、やはりそう考えてみたところで嘘にしかならない。なにせ、外に出るのも人に会うのも怖いのだ。まったく、一人で長旅なんぞ想像がつかない。しかるべき場所にはしかるべき人間が行って、しかるべきものを書く。しかるべきものを撮る。おれはそのおこぼれをいただくくらいでいい。旅行というのは、小学生の頃の家族旅行でも怖いものだった。
 それにもう、なんというのだろうか、もう見るべきものは見たという心持ちがある。「なにも見てないだろ」と言われたらその通りなのだけれど。もしもどこかに飛び出すチャンスがあったとしても、とうにそれは通りすぎてしまい、おれの移動距離というのは日々の生活に追われる分だけ消費されて、さっぱりなくなってしまった。気づけば歳も歳だ。せいぜいなれるとしたらダルマもつかぬ単なる浮浪者といったところにすぎないだろう。そしたら愚にもつかない辻説法でもしてやろうか、寿町の交差点でさ。