ブログは私小説足りうるか〜車谷長吉『業柱抱き』、『鹽壺の匙』を読む

業柱抱き (新潮文庫)

業柱抱き (新潮文庫)

鹽壺の匙 (新潮文庫)

鹽壺の匙 (新潮文庫)

 車谷長吉ブームが到来していて、『武蔵丸』につづいてこの二冊を読んだ。また一冊読み進めている。タイトルの頭は飾り。
 と、おれはここで何をどう書いていいのかピタリと止まってしまう。私小説とエッセイとの差はなんであろうか。そもそも私小説とはなんであろうか。これがわからぬ(え? 『業柱抱き』に「私小説について」ってエッセイあんじゃん。ま、自分の言葉にできぬということで)。わからぬならわからぬでいいが、人はなぜある他人の私小説に惹かれるのかなどと考え始めると、またピタリと何を書いていいかわからなくなる。主語を小さくして、なぜおれは車谷長吉のそれに惹かれるのかというと、いくらかは事情が説明できそうな気もするが、それについてはこの日記を一からすべて読み返してくれとでも言いたいような気もする。どこか通じるところが見つかるはずではないかと思う。たとえば慶應の文学部に通っていたことがあるとか(そこかよ?)。

 されば、「はなし」とは、「はなし」それ自体が「虚実皮膜の間」にあるということであろう。虚実皮膜の間とは、ことの真は虚と実の間にあるということだが、それは「実」だけでは真(まこと)はよく伝えられないということでもある。ある場合には「虚」をまぜた方が、よりリアルに真(まこと)を伝えることが出来るということである。と言うよりも、「はなし」が作り出される過程において、すでに「虚」が「はなし」の中に浸潤しており、「実」だけで成り立っている「はなし」など、実はどこにもないのだった。

 しかしまあ、私小説とエッセイとブログ、などと並べてみたくなるのは傲慢だろうか。ブログといってもライフハックだのガジェットの紹介だのではなく、より日記に近いものとして、だ。けれど私小説私小説ならしめている、なんらかの文学的な要素がそこにはあるのだろうとは思うが。あるいは、値札のついたエッセイと、だれの赤も入らず金も入らぬブログ記事との差もあろう。
 でも、だ。根幹のところで自らのこと、記憶だの考えだのを文章にせずにはおられないものにとり憑かれているという点ではいくらかの合致があるといってもいいようにも思える。たとえ書いてある内容が取るに足らぬ、何を食っただの新しい携帯端末を買っただの、そんなことであってもいい。どこかにわいせつ石こうの村があると日記に書いてもよい。
 しかし、なぜ書くのか。車谷長吉は「私小説を書くことは悪」という。

……私小説を書くことは悪であり、書くことは己れを崖から突き落とすことであった。つまり、こういうことはろくでなしのすることであって、言葉によって己れを問うことはあっても、それを文字にすることのない敬虔な人は多くいるのである。して見れば、人の忌むことを確信犯的に、死物狂いに行なうのであるから、これがいかに罪深いことかは言うを俟たない。けれども私の中には人間存在の根源を問わざるには得ない、あるいはそれを問うことなしに生きては行けない不幸な衝迫があり、その物の怪のごとき衝迫こそが、私の心に立ち迷う生への恐れでもあった。
私小説について」

 ここまでの覚悟を持って、ネットに文章を晒している人間がどれだけいるかはわからない。わからないが、たとい140文字でもなんらかの衝迫がそうなさしめている……のだろうか。おれについていえば、人間存在の根源などに立ち入る深みなどない。ただ、おれというものがいったい何なのか、何でないのか、何を持っていて何を持っていないのか、何を食って何を食わぬか、文章にせずにはおられないところはある。意味はわからぬが、おれも業柱抱きじゃあないかと思いもする。傍からそう見れるかどうかは傍が決めてくれればよい。
 ただ、おれはネットに日々アップされる人々の言葉の多くができるだけ多くの「ろくでなし」による「ろくでもない」ものであればよいと思う。小手先でハックできないライフがバンバン打ち込まれるべきなんだ。業柱を抱いた人間の群れが、落ちていく先にブログがある。おれにはどうしてもそれがよくない光景とも思えない。その上、そこまで他人の「私」に興味があるかというと、そうでもないのだからしょうもない。
 最後にひとつ、いいなと思った言葉を引用して終わる。

願望(ねがい)はあれど希望(のぞみ)なし、というのが人の生の息絶えるまでの現実ではないか。