長田弘『一人称で語る権利』を読む

一人称で語る権利 (平凡社ライブラリー)

一人称で語る権利 (平凡社ライブラリー)

 まず。なんといってもタイトルがいいじゃあないか。そう思わないか。ベリーベリーナイスだ。このタイトルだけでもなにか語れそうな、そんな気にはならないか。といっても、「一人称で語る権利についてレポートを提出せよ」とか言われても困るが。
 詩人の、エッセイだ。言葉に関してこんな一節がある。

 わたしたちは誰も今日、言葉にたいして無垢でありえないんです。のぞもうとのぞまないと、言葉に巻きこまれています。むしろわれをうしなうほどにかかわってしまっているというべきでしょう。それだから、そのことを、じぶんなりの方法で、自分なりの気質をとおして明らかにしなければならない。そうでなければ、こんどこそほんとうにわれをうしなってしまうことになるんじゃないか。

 新旧かなや新旧字体の流れで出てきた話だが、どうだろうか。もとは1984年ごろの本だから、いまみたいにインターネットで膨大な量な言葉が溢れている情況とは関係ない話だが、関係ありそうにも思える。いや、情況やらなんやらどうでもいい。おれがしこしこと数十人いるかどうかの相手になにかを書くとき、言葉に対してどうかかわっているんだい、っちゅう、そんな問いかけをされてるように思える。思いあがりだろうがなんだろうが、まあ「誰も」って言ってんだから、おれが勝手にそんな問題意識をちらりと感じたところで問題あるまい。だれも問題にするまい。
 ……と、またいろいろと付箋を貼ったページを読んでいると、あれもこれもといろいろ言いたくなる本だ。なにか、当たり前のことを言ってるね、とか、現代には言い尽くされてる、あるいはもう古くなってるのかもしれないね、なんてところもある。あるけれども、上の部分のように、バシッと撃ってくるところもある。言葉、歴史、都市、怪獣、ボブ・ディランのコンサート、そして詩について、暮らし、人生、社会について。

……「公」に対して「私」をよく拮抗させてゆくようでないと、全体がたちまち「公」の名の下にちいさくなってトリッキーになっていってしまうんです。「十人十色」という言葉をおもいだしたい。わたしたちはそういういい言葉をもってるはずなんです。じぶんにとってのいま、ここというのは「いまはこういう時代なんだ」というような、みくだす物言いによっては、けっしてみえてこないだろう。わたしはそうかんがえています。そうではなくて、じぶんにとって他に代わってもらえないものは何かという、一人ひとりの側にあるその何かのなかに、ひとりのわたしにとってのいま、ここというのはあるんだ、と。

 と、こう言われる。さて「私」はいま、ここのこれだととりあえず措定したとして、じゃあ「公」とはなんぞとなってきたりもする。いまはどういう時代なんだというと、おれもそれを一言で切り捨てるような言葉が欲しくなるときもある。けれど、それじゃああかんのか。おれにも一人称で語る権利がある。さあ、何を語る。まったく、さて。