わいせつ野菜の村

父とわいせつ野菜

 ぼくの村はわいせつ野菜の村として知られている。知られているといって、周囲の村々にちょっと知られているくらいのことだけど。ともかく、昔から根菜をわいせつな形に育ててはそれを持ち寄り、お祭りにしたりする、そんな村なんだ。いつしかそれが普通の畑仕事になっていって、わいせつ野菜の好事家なんかが、わりといいお金で野菜を買い求めるようになった。みんな、わいせつ野菜を作るのに熱心になったんだ。ひどく変な村かもしれないと、思わないこともないのだけれど。
 そんな変わった村の中で、父は生真面目すぎる性格だったんだと今にしてみれば思う。ある日、わいせつ石膏の行商人を家に泊めたことをきっかけに、「これだ!」って思ったらしいんだ。つまりは、わいせつ石膏を型にして野菜を育てれば、安定してわいせつな野菜を作れるって発想だ。なにせそれまでは、土の中に木や石をいれてみたり、苗木にまじないの札を貼ったりと、決して賢いやり方で作ってるとは言えなかったからね。

わいせつ野菜論争

 父は自分のやり方に自信満々だった。だからといって、独り占めする気なんかさらさらなくて、やり方を聞いてきた村人には懇切丁寧に説明もしたし、ときには貴重なわいせつ石膏を貸し出したりもした。村が安定してたくさんのわいせつ野菜を収穫できるようになれば、みなが豊かになると、そう信じていたんだ。ぼくはそんな父さんの姿を、ちょっと誇らしく思った。
 けれど、父のやり方に反対する人もいた。「そんなやり方はわいせつ野菜作りの本分に反する」という根拠のよくわからない精神論。あるいは、だれでも作れるということは、他の村に真似されてしまう可能性があるという現実論。技術というものは模倣されるし、それは大量生産につながりかねない。
 父のやり方について、ついに村は二分してしまった。それは子供同士でもそうだったし、ぼくは旧来のやり方をする家の子と遊べなくなってしまった。村の空気が悪くなってしまったんだ。

わいせつ野菜裁断

 大人たちもこのままではよくないと思ったらしい。そこで誰かが言い出したのは、和尚に話を聞いてもらい、その裁定を仰ごうということだった。和尚というのは通称で、どこかから流れ着いて村外れの廃寺に住み込んだ男のことだった。初めは単なる私度僧か乞食かと思われていたが、豪放磊落な性格でいつの間にか村人に溶け込んでいた。相談事などにも快刀乱麻で。日本各地を放浪してきたらしく、いろいろな物事に明るい。やがて、村人たちにたいそう頼られるようになったのだった。
 そして、ある晩のことわいせつ石膏賛成派と反対派が寺に集まり顔を突き合わせることになった。賛成派の頭領はもちろんぼくの父さんだ。
 賛成派、反対派、それぞれが意見を述べた。歳は六十を越すはずだが、まだまだ四十くらいにしか見えぬ和尚は腕を組み、黙って双方の話に聞き入っていた。
 ひと通り話が終わると、和尚は初めて口を開いた。
 「みなさまがたのご意見、ようわかりもした。正直、わしには双方のお話に理があるように思うた。理は五分と五分ゆえに、わしには白黒つけ難く存じる。が、情はどうでっしゃろ。野菜の情、これでござる。わいせつ野菜はなにに応えてわいせつになりましょうや。みなさまの情に応えて、わいせつ野菜になるものはなる、ならんもんはならん、そうではございませんか。型を使えば形はわいせつになりましょう。じゃっどん、野菜に情のあるなしはわかりません。そもそも、みなさまがたは何をもってわいせつ野菜をわいせつと見るのでございますか。あなた方の情、あるいは心といい。みなさまがたの心がわいせつ野菜をわいせつに見る。それと同時に、わいせつ野菜もまたわいせつの情がある。この不二をもってわいせつ野菜はわいせつ野菜になる。わしにはそう思える。型を使っても情が入るといえばそれでええ。それじゃあいかんというならそれはそうじゃろ。ただ、みなさまがたは何のためにわいせつ野菜を作りなさるか、今一度考えてはいかがか。わしはそう思う。さて、みなさまがたはどう思いますかな」
 寄り合いはこれで幕を閉じた。そして、わいせつ石膏派もほとんどが旧来のやり方に転向してしまった。あとから聞いた話だけれど、和尚の説法のあいだ、父は顔を真赤にして下を向くばかりだったという。

父の出奔

 その後も父はしばらくわいせつ石膏を使った野菜づくりを続けたけれど、すっかり気の抜けたようだった。よく、ぼんやり空を眺めたりしていた。そして、あの日がやってきた。秋の終わり、わいせつ石こうの行商人が一晩泊まりに来たあの日だ。その晩、父はおそくまで行商人と話し込んでいた。その光景は今でも覚えている。ぼくが父を見たのはそれが最後だった。次の日の朝、父は行商人とともにぼくら家族の前から姿を消してしまったのだ。ただ一言「わい褻せっこうしょく人になる」という書き置きを残して。
 それからの生活は大変だった。それでも残された母は父の帰りを信じて、野良仕事に精を出した。幸いにも、父がいなくなったぼくらの家に、村の人たちは優しかった。忙しい時期には、手伝いをしてくれる人もいた。
 まだ畑仕事を手伝えなかった幼いぼくと弟は、わいせつ野菜祭りの手伝いに来る、おまんという女性たちに遊び相手になってもらったことなんかを覚えている。彼女たちの出身地の特産品である小豆で作ったお菓子の味は今でも忘れられない。

わいせつ野菜とぼく

 そして今、ぼくは母とともにわいせつ野菜づくりにはげんでいる。もちろん、石膏は使わない。まだまだぼくのわいせつ野菜は褒められたようなものにはならない。それでも、時間をかけてやっていこうと思っている。父とは違うやり方で、立派なわいせつ野菜を作ろうと思っている。
 べつに父のやろうとしたことを否定しようという気はない。思うに、和尚の話だって、どっちに転んでもおかしくないようなものだった。ただ、父の中でわいせつ野菜づくりとはなにかという、そんな人の心の根っこのところに触れたのだと思う。そして、考えに考えぬいた結果、家族と野菜を捨ててでもわいせつそのものを極めたい自分に気づいてしまったんだ。今のぼくにはそう思えてならない。
 ときおり、旅のおまんに父らしい男の話をたずねてみる。それらしい話は出てこない。けれど、この空の向こうのどこかで、父は今でもわいせつを極めようとしているに違いない。ぼくと、同じように。ぼくは、そう、信じている。