変わらないような日々の生傷

今週のお題「日記・手帳」

変わらないような日々を生きているのです。日記に記すことなどありません。ありませんが、変わらない日々と変わらない「ような」は、実は違うのです。「ような」のせいで、人は老いますし、やがては死にます。「ような」は呵責なく私を殺しにきます。それに気づかずに、あるいは目を背けて生きたところで、「ような」は私を殺すでしょう。じわじわと殺してくるでしょうし、一気に殺すこともあるかもしれない。

抗うすべはあるのでしょうか。おそらくありはしません。「ような」は私を守るささやかな駒をはがしていき、陣形はぼろぼろ、気づいたら囲うように玉は包囲されています。逃げ道はありません。下手に動いても頓死するのがおちというものでしょう。

せいぜい私にできることといえば、「ような」への意識を保つということくらいです。それをしたところで、無為に失われた年月は戻りません。新しく来るべき時間に、新しい生き方をしようという意欲も出てきません。しかし、意識しようと。

私は私を傍観している。その傍観の記録が日記でしょう。同一の日は二度と来ない。失われたものは戻らない。なにかを得てしまえば、得なかった私はありえない。ささやかな「ような」は積み重なっていく。

さて、積み重ねたところでどうなるのでしょう。なんの意味があるのでしょう。おくすり手帳に処方記録のシールを貼りつづけて、なんの意味があるのでしょう。それは分厚くなるばかりです。あるいは、なにかを残したいという欲求があるのかもしれない。誰に向かって、なんのために? 私にとってよいものでしょうか。あなたにとって役に立つことでしょうか。そんな疑問も似たような日々の中で変貌していくのかどうか。私はどう変化しているのか。どう変わらないままなのか。傍観しているなどとうそぶいている一方で、私は私という渦中にある。自分が自分であることの限界がある。

私は私を傍観できない。その自分が自分であることの限界に近づこうとして、拒絶される。あるいは、その拒絶でできた傷が日記ということになるかもしれません。あるいは、その傷が自分というものであるかもしれません。

しかし、その生傷を、たとえばネット上で晒すことはいかにも露悪趣味かもしれない。少なくとも、いくらか病的な人間向きの趣味ということはいえるかもしれません。そして、自分の人生を生きに生きている人間の心持ち、同じような日々を送っていない溌剌とした人間の書くものに私はあまり興味を抱けない。世の中、いくらか暗い人生を送っている人間もいると、そう確認できるようなものを私は探してしまう。あるいは、誰かが私をそのように見つけるかもしれません。それがよいことか悪いことか判断つきかねることではありますが。