まだ春の気配はない模様

今週のお題「春になれば」

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日本のどこかでソメイヨシノ開花宣言がなされようとも、春一番が吹いたと言われようとも、今のところおれに春の気配はない。なにかいいことのたとえ、ではない。純粋に季節の話だ。おれは純粋に春が苦手だ。だから、やつの気配を少しでも感じると、おれの心はひどく怯えるんだ。おれにはその怯えがよくわかる。だからおれは宣言する、まだ春は来ていない。

なぜおれは春が苦手なのか。2月の札幌に生まれた人間、冷たいものを愛するがゆえに。そんなかっこいいものじゃあない。年度が変わり、学年だのクラスだのが変わることに怯えていた名残にすぎない。たぶんそうに違いない。下手をすれば学校が変わったりするおそろしい話だ。おれは知らない人間が苦手だ。おれは人間が苦手だ。

社会人の最初の三年間がどうとかいう。おれはとっくにそんなものは通りすぎてしまった。が、職場に転がり込んで手伝いをはじめてからしばらく、おれは社員でもバイトでもなく、なにか一個人事業主のような形で食えるだけの金をもらっていた。いや、食えるかどうかすらあやしかった。知らない間に社員になっていた。いまでも食えるかどうかはあやしいのだが。

そのせいもあって、おれには社会人としての自覚がない。最初がロハに近い形の手伝いで入ったせいだ。下っ端新入社員どころじゃなく、手伝ってやってるんだという謎の上から目線。電話は苦手だからとりません。だいたい社員じゃない人間が受け答えしたらまずいんじゃねえの? という逃げの一手。

おそろしい話だが、それで10年以上経ってしまった。たぶん、開始3日目のコンビニのバイトよりも欠如している労働者としての当事者感覚。それは働き方の中に。それは金銭感覚の中に。要するにおれはおれがよくわからぬままに10年以上過ごしてきた。こいつはたいへんなことだ。

おれはひきこもりだった。ニートだった。それは正しい。だが、過去形には違和感がある。いつまでもそのメンタリティを引きずっている。引きずっているわりには休むことを知らない。要するに、ある朝ふと逆方向の電車に乗ったりはしない。主食がお好み焼きと決めたら、それはそういうものだと毎日お好み焼きを食う。よくわからぬままに、なんの目標もなく、いたずらに。それはひきこもっていたころと同じように。

そんなことだから精神が狂う。医者に通うはめになる。狂った頭を抱えて、金の無さに頭を抱えて、恐怖と怯えの中にある。いつ生活が破綻するかわからない。いつ、新学期が来てしまうのか? 新しい学校に進むのか? それを季節ごと感じさせるのが春だ。春はおれを怯えさせる。夏や秋のことを想像することすらできない。

終わらない冬を生きたい。冬の空気は清冽でいい。冬はものが腐らないのでいい。冬は冷たいからいい。冬はおれを毛布にくるんで放っておいてくれるからいい。冬は死を連想させるのでいい。

春になったら? とたんにおれの精神は溶解しはじめ、少し薄着になってうんざりすることになる。なあ、いい加減にやめようじゃないか、こんなことは。いくら繰り返したって、もうしょうがないじゃないか。春など、やめてしまえばいい。やめてしまえば。