佐藤哲三の引退

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このように冷たい雨の日というのはどのようなものですか? - 関内関外日記

 このように冷たい雨の日は、ものごとにたとえるなら雨の日の府中競馬場、一頭だけ四コーナーを内ラチぎりぎりに通って回ってくる黒い遮眼革つきの黒い馬、胴はくびれて細めの馬、鞍上には佐藤哲三、後続には五馬身、六馬身、七馬身の差をつけて、後ろの馬たちが、中には大外にまで広がって鼻息荒く殺到してくる、その先のただ一頭、「今さら気づいても遅いんだよバカヤロォ」と内ラチいっぱいに逃げ込みをはかる黒い馬、けれど府中の直線は途方もなく長く、坂の傾斜は絶望的、それでも内ラチいっぱいに逃げ込まなければならないのです、ゴールまで。

 その馬は勝ちますか?

 その馬は勝つかどうかはわかりません。ただ、それのみが、ただそれのみが、雨が太陽に勝つ方法、夜が昼に勝つ方法、闇が光に勝つ方法、冷たさがあたたかさに勝つ方法、ただそれのみが、弱者が強者に勝つための、たった一つのやり方なのです。たとえ太陽そのものの何かが飛んでくることがわかっていても、内ラチ一頭分の一本道を逃げ切ろうとしなければならない、逃げ切らなければならないのです。それは往々にして打ちくだかれるとわかっていて、私は冷たい雨の日が好きなのです。

 

 

佐藤哲三が引退するという

ここぞという時に力を発揮する、大舞台で勝利をものにする「勝負師」と呼ばれる人種がいる。ただ勝負師といっても二通りあるように思う。ひとつは豪快な力強さを爆発させるタイプ。そして、もうひとつは暗殺者のように隙を伺い、暗闇から真剣を一閃させて仕留めるタイプ。佐藤哲三は後者であった。

ベストレースをひとつ挙げろと言われたら、おれはタップダンスシチーの13番人気で2着した有馬記念と答える。

 レースは一番人気のファインモーションが先手を取った。武豊騎乗の三歳牝馬だった。ファインモーションマイペースで先行した。誰も鈴をつけに行こうとはしなかった。ただ一人、佐藤哲三だけは違った。十三番人気の馬で、するするとファインモーションに競りかけていった。

 多くの人はその光景を見て、悲鳴を上げたかもしれない。けれど私は、その光景に完全にしびれてしまった。たった一人の叛乱、たった一頭の下克上。そして、ファインモーションを振り切り、後続を振り切り、ゴール目指して逃走をはじめるタップダンスシチー。私は何度も「タップダンスタップダンス」と言った。何度も「タップダンス」と言ったと思う。後ろからは、ただ一頭シンボリクリスエスが迫ってくる。どんどん差が縮まってくる。そしてついに、ゴール前で力尽きたタップを、黒鹿毛の三歳馬が見事に刺し殺した。まるで制裁のような差し切りだった。しかし私は、タップダンスシチー佐藤哲三に惜しみない拍手をおくりたいと思った。私は、競馬をやっていて心底よかったと思った。

 今年の有馬記念タップダンスシチー立場微妙だ。迎え撃つ立場にあるのか、若い王者への挑戦者なのか。しかし、そんな中だからこそ、佐藤哲三は見事にさばくかもしれない。人気も立場も関係なく「やることをやる」男なのだ。

ラストダンスは私と - 関内関外日記

佐藤哲三が引退してしまう。10万馬券を初めて当てたのも哲三のおかげだった(

2009ジャパンカップダート〜生まれてはじめて10万馬券獲ったのこと〜 - 関内関外日記

)。

「やることをやる」男だ。日本ダービーだって、凱旋門賞だってかっさらっていっておかしくないはずだった。ローカル重賞だろうが、オープン特別だろうが、条件戦だろうが何かやってくれておかしくないはずだった。腕を吊った状態でのテレビ出演などを見て、復帰はまだかかりそうだが、きっと帰ってくると思っていた。なにせおれがやめていた競馬を、ふたたびやり始めたのだ。なのに、哲三がいなきゃ面白くないじゃないの。ああ、まったく……。