真面目の植木等

植木等伝説(DVD付)

 仕事場のラジオから「スーダラ節」のカバー曲が流れてきた。女性のボーカルだ。馬券がどうこうと歌っている。はて、「スーダラ節」に馬券がどうこうという節があったのか。おれの記憶にはない。検索してみる。

 歌詞サイトを見れば確かにあった。おれが知っているのは後年に発売されたメドレーの「スーダラ伝説」であって、オリジナルの「スーダラ節」の2番は知らないのであった。Wikipedia(スーダラ節)にはこんな記述がある。

 

 この曲の2番は、競馬で大穴を狙うも最終レースまで外れ、ボーナスをスッてしまうという内容の歌詞になっている。

1992年の有馬記念終了後、植木が中山競馬場で開かれたミニコンサートでこの曲を披露したところ、競馬ファンがサビの部分を大合唱するまでに盛り上がったという。

 

 しかしおれは、次の一節に注目した。

父の言う通り、発売されるや否や『スーダラ節』は大ヒットを記録した(小林信彦は「なぜか名古屋から火がついた」と述べている[2])。しかし植木自身は「こんな歌がヒットするようでは悲しいなぁ」「冗談じゃない」「こんなのがヒットするってことは、俺が考えてる日本と本物の日本は違うものなのか」と思い悩んでいたと言う[3]。

 「父の言う通り」のエピソードも面白いのだが、この植木等の真面目さである。意外、とは思わなかった。おれは植木等を見たことがある。それはこんな具合に記憶されている。植木等の訃報を受けての日記から引用する。

 植木等を一度だけ生で見たことがある。大船でだ。大船の警察署だかの一日署長ということで(この設定自体がコント的かもしれない)、あの狭い駅前をパレードするというのだ。俺はちょうど日能研の帰りで、「スーダラ伝説」の植木が見られるということで、たしか友達を誘って、大勢の人の中で植木等を待ったのだ。しばらくして、オープンカーだかなんだかの上に、警察の制服を着た植木等がやってきた。チビの俺は必死に見上げて、そして、うまいぐあいに植木等と目が合ったのだ。そのときの植木の表情は今でもはっきりと覚えている。無責任男の愉快な笑顔でも何でもなく、今適切な言葉を探すとすれば「素」だった。あるいは笑顔で手を振るような、一連の動作の間の一瞬の隙だったのだろうか。なにか、驚いたような、びっくりしたような、何とも言えない普通の表情で、俺と目が合ったのだ、確かに。笑顔で手を振る植木等だったら、これほどまでに強く心に刻まれたのかどうかわからない。ともかく、俺は植木等を見た! そして、その植木は、想像していたのと違っていたけれど、決して俺を裏切るものではなかった。目が合ったんだ、確かに。あれが植木等だったんだ。

 その「素」の植木等の顔が思い浮かんだのだ。あのときおれと目が合った植木等は、「こんなのがヒットするってことは、俺が考えてる日本と本物の日本は違うものなのか」と思う植木等ではなかったのか。自分と自分を取り囲む世界になにか違和感を覚えずにはいられなかった植木等なのではなかったのか。刹那のことである。遠い昔の思い出である。とはいえ、「スーダラ節」を自己否定する植木等というものはたしかに存在したのだと、わずかながらの材料からおれは納得してしまう。

 植木等が亡くなってからしばらく経つ。おれは強迫的な精神を加速させて、抗不安剤なしには生活もままならない。「そのうちなんとかなるだろう」の精神は微塵もない。「ぜにのないやつは俺んとこにこい」という知己もいない。おれのこの世はますます気楽ではなくなっていく。イライアス・ハンセンではないが「心配するな、再来年にはもっとひどいことになるさ」という具合だ。いや、再来年があればまだましな方だろう。

 おれが生まれて初めて買ったCDは「スーダラ伝説」だった。昭和の気楽なサラリーマンのようなものにあこがれて、それにすらなれなかった。時代も変わったせいもあるが、自業自得の面も大きい。馬券に突っ込むべきボーナスというものすら知らない。あのときの、真面目の植木等の表情からなにか感じ入ることがあれば、おれの人生ももうちょっと違ったものになっただろうか。わかっちゃいるけどやめられないのは、ひとり酒だけ。今はもう、苦しむことなくスイスイとあの世に行けることを願うばかりだ。


スーダラ節 - YouTube