マット・リドレー『やわらかな遺伝子』を読む

やわらかな遺伝子

やわらかな遺伝子

 またミネカのサルの話が出てきた。実験室で育てられたサルはヘビを怖がらない。だが、ヘビを怖がるサルの映像を見せると怖がるようになる。しかし、同じように花を怖がる(ように見せかけた)映像を見せても、花を怖がるようにはならない。学習と本能の関係。

 この話のなにより素晴らしい点は、本書がここまで検討してきたすべてのテーマを結びつけていることだ。一見したところ、ヘビへの恐怖はまさしく本能のように見える。それは独立したモジュールで、自動的で、適応性も示す。しかも遺伝性が高い―双子の研究によって、性格と同じように恐怖反応も、共通の家庭環境でなはなく、共通の遺伝子によるところが大きい事実が明らかになっている。それでいて、ミネカの実験は、恐怖反応が完全に学習されたものであることも示している。かつて、これほどまでに明白に「生まれは育ちを通して」を実証する事例があったろうか? 学習は、それ自体が本能なのである。

 ということらしいので、本書の原題『nature via nurture』なんだね、と。vsではなくviaだと。生まれか育ちかじゃないのだよ、と。まあそういうわけで、「生まれ」か「育ち」かの二元論の戦い(おもにプロローグ「12人のひげづら男」として挙げられた有名科学者たち)を紹介しつつ、いや、そうじゃねえんだと、そういうことを言いたかったんだろう。たぶん。いや、高卒文系には厳しいもんがあるぜ。でも、一遺伝子=「○○の遺伝子」と言い切れない(言い切れるようなものもあるが)ことくらいの警戒心を手に入れることはできるかもしれない。
 あとはもう、なんというか個別の実験、エピソード、推論であって、気になるものもいくつかあったが……たとえばデイヴィッド・ホロビン(ホビロンではない)の統合失調症と必須脂肪酸の話であるとか、そもそも統合失調症は脳の退化でなく脳の発達、成人期に多くの配線が遮断されるさいに起こるものだとか、やっぱり薬指の長い男はテストステロン濃度が高く自閉症や読字障害、吃音、免疫不全になる危険性が高いとか(ちなみにおれの薬指は中指と同じくらい長く、人差し指より爪一個分の差があるけど、これは長い方なのだろうか)、台湾の幼児期から一緒に生活させる許嫁制度はそうでないケースに比べてうまくいかない確率が高いとか、コンラート・ローレンツナチスの関係とか、聴覚障害者が脳卒中で耳の聞こえる人が失語症になるのと同じ脳の部位にダメージを受けると、やはり手話の失語症になるとか(人の言語は手話から生まれたのか?)……。
 でも、ともかくこういうことだ。

 人間には、学習する―すなわち刺激の関連に対して条件づけられる―能力や、賞罰などの学習理論にかかわる要素に反応する能力があると主張するのは、事実とし間違っていない。これは真実で、いわば私が築こうとしている壁の重要なレンガだ。しかしだからといって人間に本能がないということにはならない。人間に本能があると学習できないというわけではないからだ。人間には本能もあるし、学習もできる。人間を本能だけ、あるいは、学習だけと考えるのがいけないのであって、哲学者のメアリー・ミッジリーが「ナッシング・バッテリー(nothing buttery)」と呼ぶ見方にとらわれるのが誤りなのである。

 ナッシング・バッテリーってのはいろいろな見方ができるものを、nothing but〜と限定しちまうことを言うらしいが、まあそういうことだと。それでまあ、日本語タイトルの「やわらかな遺伝子」ということで。どっちもどっちとかそういうんじゃなくて、相互に作用してこその複雑な人間というものなんだぜ、と。だから、極端な理想をもとにしたユートピア思想に基づいた共同体ってのはたいてい失敗するんだって話なんかも納得できるというか。

 文化が人間の行動を変化させる力には、限界があるのだ。

 それと、才能の話。

 本来、才能の遺伝的な差異は、ごくわずかなのだろう。あとは訓練の成果なのだ。とはいえ、その訓練自体が一種の本能に頼っている。思うに、それはヒトだけが持つ本能で、何万年ものあいだに自然選択によって思春期のヒトの脳に植えつけられ、子どもの耳にこう語りかけているのではないだろうか。得意なことをどんどんやり、苦手なことは嫌がりなさい。子どもはいつでもこのルールをしっかり心に留めているようだ。ここで私は、才能を育む欲求自体が本能なのではないかと示唆している。ある種の遺伝子群はあなたにある種の欲求を与える。あなたが仲間より何かが得意だと気づくと、その何かに対する欲求が激しくなる。習うより慣れろというわけで、やがてあなたは仲間の中で何かのスペシャリストとして自分を切り開く。「育ち」は「生まれ」を強化するのである。

 さてこれはどうなんだろうか。狩猟採集時代ならば少数の群れの中で狩りの上手なスペシャリスト、果物を見つけるスペシャリスト、夜目が効くスペシャリストなんかになれる確率は高かったろうが、この現代社会はスペシャリストどころかサムシングになれる確率ですらどのくらいあるのか、などと。あ、おれは楽園追放論者なので。
 さいごに、なんかかっこよかったアイザイア・バーリン(という名前がかっこいい)の言葉が紹介されていたので引用して終わる。以上、ぜんぜん脈略もなく失礼。

願わくば、私の人生や決断が、いかなる種類の外的要因によるものでもなく、私自身によるものであらんことを。願わくば、私が、他人のではなく、私自身の意志による行為の道具であらんことを。そして願わくば、私が客体でなく主体であらんことを。

 ……って、うーん、これって再帰性? 自己責任論? すくなくとも他人に押し付けたらそうならねえかとか思ってしまう(打ちながら気づいた)おれは弱い生き物だ。

>゜))彡>゜))彡

……バーリンさんのはここで引用しているカントの話に似ている? おれは数学と同じくらい西洋哲学がわけわからん。