内海健『精神科臨床とは何か 日々新たなる経験のために』を読む

精神科臨床とは何か―日々新たなる経験のために

精神科臨床とは何か―日々新たなる経験のために

 おれは「この病の当事者は、知る力と、知ることによって自らをコントロールする力に長けている」らしい双極性II型障害者なので、アドヒアランスかなにかわからぬが、治療者側に向けて書かれたと思しきこんな本まで読んでしまう。もっとも、この書き手の文章の切れのよさにいくらか惹かれてるという面もある。その上、おれ自身が当事者なのだから、乾いた砂の詰まった壷に水を注ぐがごとく、知識が注ぎ込まれることの快感というものがある。競馬というものをはじめたとき、週刊ギャロップを読んだときのような快感である。とはいえ、おれは金杯も万葉ステークスも買っていない。今年は競馬はせぬ。TV Bros.の占いにそう書いてあったからだ。おれは占いを信じない。
 まあそれはどうでもよろしい。著者曰く「一気呵成にお読みいただければと思う」というので、一気呵成に読んだ。最初にさらっとした印象を抱くと、おれが他に読んでいる加藤忠史先生や進化心理学とはべつのなにかについて述べられているのではないか、ということだ。このあたりは、おれの知が確固たるものでないので断言できぬ。断言できぬが同じものについてやや違った角度からのアプローチを提唱しているのではないか、と。ともすれば、細りゆく自らの場を守らんという意志を感じさえするというものである。脳を含めた人間というものの不完全さ(に至る進化)などについては、同じことを言っている。最後までいくと、おれが信じるところの機械としての脳という見方に反しているようにも思える(「浅薄な見方が浅薄な病理を作り出す」とまで言ってる)。でも、なにかおもしろいんだよ。そういう印象だ。以上、あくまで印象であって、それ以上でもそれ以下でもないのだが。
 以下、気になるところをメモする。

本能について

 まずは、人間が生物としての「本能」(というものがあるとすれば)が狂っているのではないかという話。他の生物は世界と調和して生きているではないか、と。

……このことを理解してもらうために、私は学生に次のようなきわどい質問をすることがあります。それは「人間はいったいどうしてパンツをはくのか」という問いです。授業中にあてられると、大抵は困った顔をします。最もよく聞かれるのは、「恥ずかしいから」という答えです。

……ここで発想を展開する必要があります。つまり、人は恥ずかしいからパンツをはくのではなく、パンツをはくから恥ずかしくなるのです。

 いや、「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」だろ、学生諸君! ……いや、こんな話にひっかかってる場合じゃないのだが。それに、隠すから恥ずかしくなるという話はどっかで聞いたことがあるような話だが。話だが、さてこの観点から「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」を考えるとどうなるのか。……おれにはよくわからない。
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クオリア

 クオリアの話をする。本書では茂木健一郎クオリア、著者のクオリアの話が紹介されている。おれはメイショウクオリアのことはいくらか知っているが、クオリアと言われてもよくわからない。ただ、どうにも生々しく、心から消えぬ似たような体験というものは二つほどある。ひとつは日記に記している。

 たんに仕事に疲れて(しかし、もう零時を超える残業などなくなった。仕事が無いのだ。死は近い)、脳がハイになっていただけかもしれないが。ただ、ここに書いた8年前の事柄に関して、大げさに書いたという気は今もしていない。もう一つの経験については、いずれもうひとつのブログにでも書くだろう。
 ところで、クオリアという言葉自体、今どきどうなのだろうか。これもよくわからない。

デカルトにせよカントにせよ

 人間が自由であることを発見したのはそう昔ではありませんが、それは人間にとって大きなイベントであったと思います。昨今では自由の性格が随分変質して、好き勝手、わがままといった感じになっています。しかし、西洋の思想史をひもといてみると、デカルトにせよ、カントにせよ、自由をたたえる一方、自由を発見したことに対する、どうしていいかわからないという怯えといったものを、感じざるをえません。

 カント、デカルト、みんな悩んで大きくなった(おれは何歳だ?)。まあ、ふと臨床から離れて哲学に触れた一節だが(というか、この本は実用的に臨床について書かれた本なのだろうか?)、「はあ、そういうものなのか」と思う。おれは算数と西洋哲学がよくわからないが、「そういうものなのか」と。たとえば、一神なきこの島には、そういった怯えを覚えた思想家がいたのだろうか。そもそも自由の発見があったのかどうか、考えてみても仕方ないが、知りたいところではある。

コピーが先に与えられる

 乳児が鏡を見る場面を想定してみましょう。私が鏡を見ると、まず自分の像がやってきます。私には確固たる自己はまだありません。ばらばらな状態です。よちよち歩きしかできなくて、自分という意識もまだ成立していません。ふと見ると、自分の像がある。コピーが先にあるわけです。そうすると、この像があるということは、「像を見ている私というのがあるはずだ」と展開されます。それがまさに主体(S字に/)というものなのです。もう一度いいますと、像(コピー)がプライマリーに与えられ、コピーがあるからにはそれを見ているはずの私、あるいは見ていたはずの私があるという形で、後から―この後からというのが重要です―主体というのが出てくる。原初的には事態はこうなっていたはずなのです。

 m(moi)とそれを移す鏡像のa(autre)、そしてその上に出てくるSスラッシュ(存在)。existentiaとessentiaに対応した二つの自我。……っていよいよようわからんなってきたような気がするが、図が助けてくれる。像(a=m)が先にあって、主体が生み出される。さて、といってわかったわけではないが。まあともかく、この自己の原基ちゅうもんに、たとえば統合失調症が関わってくるという、ことらしい。著者とある同業者との会話。主体を重視しての話。

「自分が織田信長であるとしても私は私だ」というのがわからないと、統合失調症の人の気持ちはわからないそうなのです。このあたりには、越すに越せない気質の壁のようなものがあるとしみじみ感じます。

 統合失調症は主体の方がふわふわ漂うもの、現実世界にもどれないもの、と。一方で、aが問題になるのが躁うつ病に関わってくるものという。

たまたま「この私」であるという偶有性(conitingency)の不可思議さ

 これに触れてしまうのが双極性っちゅうものなんかいな?
 それはそうと、この鏡というのは実際には「母」だという。

 この母の想定(assumption)こそ、子どもの中に「私」を立ち上げるのです。母に見つめられることによって、私は匿名のものでなく、ほかならぬ「私」というものになります。何度も言うように、私は最初から私ではありません。私とは「他者の他者」なのです。

 と、このあたりはどうなんだろうか。フムンと首肯してしまうところと、いやいや待てよと思うところが同居するような気になる。ただ、私とは「他者の他者」と言い切るところに、なにかこうズバッと来るところがあるようにも思える。

「私」とはまさに脳の中の幽霊であり、また世界の中の幽霊なのです。いつ何時、それは消え失せてしまうかもしれません。

 また、章を超えて曰く。

……異物の認識ができることによって自己は自己となります。同様に、他者を他者だとわかることによって、私は私となります。さらにもう一歩、推し進めましょう。他者がまず到来し、しかるのちに私が与えられるのです。

 このあたりは多田富雄の免疫の話あたりに接続できるのかしらん。

根源的メランコリー

 ここが難しいところなのですが、言葉の世界に入った途端にノスタルジックに「満ち足りた世界があった」と後から気づくのです。言葉を覚えたがゆえに、言葉の向こう側に、というより言葉の手前に、何かすばらしいものがあったのではないか、というふうにわれわれは想像するのです。それらはすでに失わています。ここにみられるのは決定的な手遅れの構造であり、取り返しがつかない事態なのです。

 おれが本書について、著者について何らかの信頼のようなものを寄せるとすれば、ここのところにある。「第IV講 言葉への道」にある。われわれの言葉はウイスキーではないし(村上春樹)、言葉なんかおぼえるんじゃなかった(田村隆一)というものだ。これをなんと名付けよう。根源的メランコリー。悪くないじゃないか。
 と、それはともかく、この「もはや取り返しがつかない」、「最初からなかったかもしれない」という根源的メランコリーは、うつ病の人にしばしば見られる「私のせいでみんなに迷惑がかかっている」というような罪悪感に通じる。その罪悪感は「ひそかに万能的な自己を取り戻そうする動き」という。一見、罪悪感と万能感はつながっていないように見えるだろうか。おれはそうは思わない。おれを鑑みてそう思う。そう思うようになった。病気になってわかったいくつかのことの一つ。
 しかし、その帰責性にレスポンシビリティ、主体性があるための条件があるというのだが……。

 実は最近、この辺があやしくなっています。自分のせいであることを引きうける、自分が悪かったと内省する、罪悪感を持つ、落ち込むということ、そうしたことに耐えられない人が増えてきたという気がします。無責任であるとか、やさしすぎるとか、そういう連中が目立ちます。

 そうなんだよ、おれは「そういう連中」なのだ。根源的メランコリーに浸り、責任のない世界を志向し、無責任な希死念慮とともにある。おれには耐えられない。そういう連中。sick roleの権利にだけあぐらをかいて高いびき、そんなことできたらいいなと思っている。現実には誰にも救われずに死ぬので、それだけは叶う。……などという自己愛の防御。さてこの円環の理をどう断ち切るかね? もう手遅れだ。
 まあいい。言葉についてもうひとつ。

……私が時々使うのは、言葉ではなく、「音を聞く」という技法です。日常的な意味を削ぎ落として音に耳をすますとき、あの始原の言葉の持っていた、metaphoricalな、literalなきmetaphoricalなものへの通路が開かれるかもしれません。言語を礎として大切にしつつ、そのうえで言語を超え出ようとする、そうした姿勢を忘れないようにしたいものです。

 と、また、なにか横文字が出てきた。ルソーの言うそれらは「端的に間違っています」とおっしゃる。literalが字義的、metaphoricalが隠喩性、比喩的。はじめにliteralあり、その変形としてmetaphoricalありとされるが、そうじゃねえんだと。逆じゃないかと著者は言う。実際には後者が使用されていく中で前者が確定していったんじゃねえの、と。さあどうなの。おれにはわからん。これでピンカーの『言語を生み出す本能』とか読みに行ってもなんか話は違ってきそうな気はするけれども。

臨床的他者論

 臨床とタイトルにあるわりには、臨床の話あんまりしてないように思うなーと思いつつ、後半は臨床の話になっていく……のだろうか。おれは医者じゃなく患者のほうだから、医者がどういう言葉をどういうニュアンスで用いているかなんぞ知りはしないのだ。でも、次の話はなんとなくおもしろかった。

 まず原則的なことを押さえておきましょう。それは至極単純なことです。他者と相対したとき、他者をまさに他者として向き合うということです。ただ、これだけではあまりに抽象的です。他者のまさに他者たるゆえんとは何でしょうか。それが両義的な存在であったことを確認しておきましょう。つまり絶対に不可知でありながら、なじみある存在です。Heimlich(引用者注:ドイツ語「なじんでいる」)かつunheimlich(引用者注:さっきの反対語)、わかると同時にわからない存在です。このどちらにも偏らない態度が臨床家に要請されるのです。「わかる」と「わからない」、その両者の分かれ出るところをめがけるのである

 点のかわりに太字。「わかる」ものにタグをつけて、それで終わりじゃいけねえんだと。「わかる」ところに「わからない」ところを見つけ、「わからない」部分には「わかる」部分を見い出せ、と。その分かれ出るところを指せ、と。このかかわりの中から「わかる」→了解、「わからない」→主体の尊重(受容)が出てくるのだと。ふーん、なるほど。でもって、後者の方は、赤ん坊が泣く→母が乳を与える→赤ん坊が事後に空腹と気づくというところが原型だと。「x-了解=受容」と。

精神科面接の基礎

 最後に医学生向けと思われる実践的な内容に踏み込む。まず、次のことが確認される。

治療は診断に優先する。

 なにやら当たり前のようでいて、その実のところよくわからない、というのが正直なところ。これが治療する側であれば、なにかしら実感のある、手触りのある言葉として了承されるのやもしらん。治療は診断に先駆けてはじまっている、か。たとえば、おれが精神科だか心療内科だかに電話したそのときには、ということと思うていいのだろうか。そして、おれが診察室で話すことにより、他者(医師)の応答があり、はじめておれはおれの言うことの意味を知る。……といったことは初診かたまにある(おれの場合は一年くらい経って「双極性じゃね?」と言われたとき)くらいで、たいていは「どうですか?」、「かわらずあかんです」で終わるのだけれども。ただ、おれが「かなり状態が低調なのですげえウキウキになれる薬処方してくれないかしらん」と、あえて怯えたマウスのようにドア開けて小声で挨拶して椅子にすわったときは「よくなさそうですねえ。入り方でわかります」とか言われたりな。見ぬかれてるかね。でも、詐病(?)したくなるくらい低調なのは事実なのでね。ちなみに、おれの言うウキウキになる薬というのはアルコールかそれ以上にしてくれる代物であって、たぶん医者は処方してくれないというか、処方薬の中に存在しないかもしれない(ちなみにSSRISNRIの類は処方されない。双極性の場合ちょっと上がってストンと落ちて死ぬから)。
 まあ、医学生よ、おれのようなのもいるから注意されたい。

sick role

 これは先に読んだ本にもチラリと出ていた用語。患者であるということは、風邪であろうと癌であろうと社会的な規定であるということ。患者であるということは社会的現実にほかならないということ。タルコット・パーソンズという社会学者が1951年に提出した概念という。「病人としての役割」。おおまかに次のように分かれている。

特権
1.通常の社会活動の免除
2.責任がない存在とされること
義務
1.病気を望ましくないものとみなすこと
2.病気を治すために有効な治療を求め、受けること

 当たり前やないかい。……といえるかどうかというか。おれなど生来の怠け者などは特権だけ欲しいと思うのが性根にある。だが、あったところで自由になれるわけでもないので、精神科を野戦病院に、苦痛でしかないみじめな人生を送っている。信頼できるのではないかとかんがえる医者に通い、効いているのではないかと考える薬を飲んでいる。でも、特権なんてねえよなあ。「ちょっとキチガイ病院行ってきます」って会社抜け出る30分なり40分が特権か? 医者にゃ「宅間守みたいなことしても弁護できないから」って言われてるし(ジプレキサ服用後はそういう攻撃性なくなったよ、マジで)。
 それはそうと、一方でこの著者がやや批判的に見ているDSMを主に用いた面接構造。これはいかなるものか。

  1. 構造化面接を受け入れてくれること
  2. 言葉をそのまま受けとってよいこと
  3. 気心の知れない者同士であること
  4. 医学の側が知を寡占すること
  5. 面接者の主体を消すこと
  6. こうした構造に気づかぬこと

 こういう面接構造を前提にしていると筆者はおっしゃる。なるほど、これが隆盛する事情はわかる。わかるが、これじゃしぼんでいっちまうぜとおっしゃる。おれにはなにが正解かわからぬ。おれをウキウキにしてまともな社会生活を送れるようにしてくれるならば何でもよい。

思春期の課題の変遷

 最後の章は「精神科臨床のゆくえ」だ。ここで、大きな物語が終わった時代の思春期の課題の変遷いう表があったので引用したい。

「私」とはなにか→私はどう思われているか?
「社会」とはなにか→社会でどう生きるか?
自立しなければならない→みんなとうまくやっていかねばならない

 どうだろうかというか、図星じゃないかというか。ええ、35歳児、思春期まっさかりのおれ曰く。でも、最初の一個はどうでもいいというのが口から出る言葉。残りの二つはまさにその通り。著者の言う意味とはずれているかもしれないが、食わねば生きられぬ、どう食い扶持を得るか。そのためにはよほどの才能でもない限り、周囲と軋轢なくやっていかねばならない。対人恐怖のおれにとっては死活の問題。
 と、ここでやはりおれは耐えられぬ連中の一人であると思いたい。そう思って逃げを打ちたい。玉の早逃げ八手の得。とはいえ、大げさなdemoralizationを打ってみる(詐病?)勇気もないし、できれば最低限今の生活をどうにかぎりぎりのところで維持できたらいいなと、大それた希望を持っているのも事実だ。
 ああ、しかし、やはり「社会」とはなんだろうか。おれ一人、おれのようなちっぽけな駄目人間一人、そこらの片隅で生かしておいてくれぬものか。なにも悪いことなどできやしませんので。ああ、しかし、どうもこの世は生かしてくれぬようだ。森に帰りたい。そう思う。

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