張賢徳『人はなぜ自殺するのか 心理学的剖検調査から見えてくるもの』を読む

 おれは常日頃より自分の希死念慮を隠そうとしない。自分の行き先は自死か路上か刑務所かといってはばからない。おれは常に不安だし、おれは常に死にたがっている。
 「死ぬ、死ぬ言ってるやつに限って死にはしない」というのならそれで結構。けれど自殺を決行して、そこにいたる本人の心理が書き残されているというのも結構な話じゃないか。そんなところがある。おれは生きて世のため人のためになれるようなものではないので、せいぜい死んで一粒の砂くらいのお役に立てればこれ幸いである。おれにもそのくらいの良心はある。
 と、そこでそもそも自殺ということについてあまり知らないな、ということに気づく。そこで読んだのがこの本だ。

 おれは自分の病気、双極性障害については関心を持って本など読んできたが、希死念慮、自殺という方は手薄だった。自殺の方からおれを照射してみたいと思った。どんな影ができるのか?
 で、本書。サブタイトルに「心理学的剖検」という見慣れぬ言葉がある。これはなにか。いわば、心の検死、心の解剖である。とはいっても、加藤忠史先生の領域でやってるような、死後の脳を細胞や神経細胞レベルで観察して自殺の原因(となった精神疾患)を見つけ出そうというのとは違う。もちろん、霊媒師を呼んで本人から話を聞くわけにもいかない。となると、残るは自殺者当人の周りの人間からの聞き取り調査、これである。これによって自殺者が精神疾患であったかどうか判定しようというものである。
 その手法をあみ出したのはロビンスという精神科医だったという。

 彼が見出した、「自殺者の90%は精神障害を有していた」という結果は、その後の調査でも確認され、今では精神医学の教科書に書かれるほどの定説になっている。

 本書では、著者が日本で初めて同じような調査を行ったことが経時的に書かれており、わりと大部分を占めるのだが(自殺をよしとする一方、恥とする面もあって面談にこぎつけないとか、一周忌がひとつの節目になるなど、日本ならではの習慣があったり)、それでもだいたい結果は一緒だったという。
 では、どんな精神疾患か。日本では一にうつ病(圏)、ニに統合失調症(圏)、三に物質(アルコール・薬物)乱用性障害。アメリカなどでは二位と三位が入れ替わる。すなわち人種によるアルコール耐性から、日本人の場合はアルコール依存症になる前に別のなにかになってしまうのではないかということ。まあ、いずれにせよ、うつ病(圏……がつくと双極性のうつ状態なども入る)のおれとしても、「まあ、そんなもんだろう」と思うくらいか。
 ちなみに調査からわかったことに、おれが最初に書いた「死にたい、死にたいと……」についての話もあった。

 一方、特に高齢群では、「死にたい、死にたいと言うような人は、本当は自殺しない」という俗説が誤っていることを知らされた。「死にたい」と漏らす人で自殺しない人も多いとは思うが、60歳以上のうつ病者の80%が自殺をほのめかす発言をしていたことは重大な知見である。

 とのこと。わかいやつとは言葉の重みが違うということか。
 さらにはこんな話もある。

 今回の調査対象においては、自殺念慮は全て希死念慮から始まっていた。また、自殺行動は全て自殺念慮から移行していた。つまり、これらの自殺関連事象には階層的な発達がみられた(図)。

 これ、当たり前だけど重大だ、と著者。「突発的な自殺」っていうのはあんまりないんじゃねえのか。そして、この前提が自殺予防に役立つんじゃねえかと。統合失調症の幻聴や幻覚の場合は別として、だけれども、と。なるほど。これは希死念慮持ちとしては、いよいよ具体的に自殺する方法を考え出したら「自殺未遂または既遂自殺」に一段レベルアップしたな、ということがはっきりするということだ。覚えておこう。
 ほかにはなんだろうか、自殺と遺伝についても書かれている。双子研究だ。

 一卵性双生児の自殺一致率14.9%に対し、二卵性の一致率は0.7%という結果が出されている。一卵性の一致率の方が二卵性より高いということは、自殺の遺伝性を支持する結果である。

 という数字が出てきたりね。

 自殺に関しても移民研究がいくつか存在し、移民の自殺率は移住先のホスト国よりも出身国のそれに近いという結果が得られている。例えば、自殺高率国のハンガリーからの移民は、移住先でも高い自殺率を示す。この結果に対して、社会学者は「自殺志向文化」の継承を考える。

 なんていう話も。
 とまあ、なんだ、自殺というのは多面的なもので、病気が殺す、遺伝子が殺すと言い切れるものじゃない。それで、著者が「自殺の生物学」として一章を割いている。

 動物の自殺について文献を検索をしてみると、ある種のカマキリやクモで、オスが性交後にメスに食べられる行動を自殺ととらえている報告がある。カマキリの場合は、メスから逃げおおせるオスもいるとのことで、オスの自殺というより、メスによる捕食というとらえ方の方が優勢のようだが、クモの場合、オスが自らメスに飛び込んでいく種類がいるそうで、これを自殺行動ととらえている研究者がいる。もし、そのような行動があるのなら、私もそれを自殺とかんがえる。これも進化上、種の保存という重要な意義を持つ。

 このあたりはあれだ、例の進化心理学のジョークだな。何人のいとこのためなら死ねるか、とかね。ひょっとしたら、人間もそのスイッチを持っているかもしれない。ある環境においてスイッチが入る。それもありえる。
 で、現代日本の自殺者数の話が来る。この本が出たあとに自殺者三万人時代というのは終わったが、それでも多いには多いだろう。とくに1998年の激増というのが紹介されていたが、今後もこういうことも起こりうるに違いない。たとえば、消費税増税でバタバタ倒れていったら文字通りの死屍累々が展開されるかもしれない。とはいえ、他人のために役に立たないものが淘汰されていくのならば、それは当たり前のことなのかもしらん。繁殖に希望がなければ消え行くのみか。もちろん、自殺は自殺当事者のみの問題にとどまらない。本書でも繰り返し述べられていたように、遺族のケアという問題もある。思うに、自殺というのはある一点が消失するというよりも、ハンモックのように吊るされた布状のものの一点に重い鉄球でも落ちてきて、死という低さまでおちるようなもの。周囲も近しいにしたがって下がる。そういう連鎖反応。おそらくは、まだまだ大変な時代は続き、人は自ら死に続ける。周囲を巻き込みながら。しかし、それとも。

……「自殺こそ人間に与えられた特権だ」と言って、自殺を容認する人がいるが、私は反対だ。
 「自殺予防こそ、人間らしさの表れだ」と私は思う。自殺を減らす社会の実現を願い、微力ながら努めたい。

 哀れな、二本脚の動物、本能と呼べるものがあるならば、それに逆らうことこそ他のサルとの違いといえるか。まあ、いずれにせよおれが消え入りたいと思わぬ世界など、おれが生きているうちに実現しそうにはない。もっと立派な人と、もっと困っているひととの間のニッチでサッチもいかなくなって死んでいくのだろう、おれは。おしまい。