ブローティガンってどっかベックみてえだな〜『アメリカの鱒釣り』を読む〜

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

 『アメリカの鱒釣り』の表紙は、ある日の午後おそくに撮られた、サン・フランシスコのワシントン広場に立つベンジャミン・フランクリン像の写真である。
「『アメリカの鱒釣り』の表紙」

 アメリカの鱒釣りの冒頭はこう始まる。だから、日本語文庫版の表紙は和田誠で、というわけにはいかないのだ。『西瓜糖の日々』のときにも書いたが、おれはブローティガンをマッチョだと思っていた。その理由はといえば、名前の響きからでしかない。あるいは代表作『アメリカの鱒釣り』から感じる、アウト・ドアななにか。とんでもない誤解だった。

 ベンジャミン・フランクリンの自伝を読んで、アメリカについて学んだのはカフカだったかな……「アメリカ人は健康で楽観的だ。だからわたしはかれらが好きだ」といったカフカ
「『アメリカの鱒釣り』の表紙」

 ブローティガンが健康で楽観的なのかどうか。おれは『西瓜糖の日々』とこの『アメリカの鱒釣り』しか読んでないので言い切れない。あるいは、だれかをそんなふうに言い切ることなんてできないかもしれない。とくに一人の小説家なんて。

 そうだとも、精神病院にはまさしく将来性があった。そこで過ごすひと冬が丸損になるなんて、とても考えられないことだった。
「アル中たちのウォルデン池」

 ブローティガンは健康で楽観的だ。ともいえる。全体を通して乾いたユーモアが、笑いがある。しかし、どこか乾いている。おそろしい空虚だとかそういうものが漂っている。暗渠の中に死の雰囲気がある。陽気なアメリカ、楽しいアメリカ、ただその裏側には何かがあるような気がする。

「ええと、こういったら参考になるかな」と校長。「きみたちね、もしかして一年生の背中に、白墨で書かれたアメリカの鱒釣りというのを見たんじゃないかな。どうしてそんなことになったんだろうか」
アメリカの鱒釣りテロリスト」

(引用太字部分、実際は傍点)
 もちろん、村上春樹に似ていると思った。高橋源一郎にも似ていると思った。むろん、Wikipedia先生に「影響を与えた」と書かれているし、今のところだれもそれを書き直そうとしていないくらいの信ぴょう性はある。信ぴょう性といっていいのかわからないが。おれはとくに高橋源一郎が好きなので、「ここに彼の根っこの一部があったのか」と思ったりした。おれがはじめて高橋源一郎を読んだのはいつだったか? 小学生のころかもしれない。「このような小説もあるのだ」と父に『虹の彼方に』か『ペンギン村に陽は落ちて』を渡されたような気がする。漫画ばかり読んでいたおれは「このような小説もあるのか」と思ったものだった。そのとき『アメリカの鱒釣り』を渡されていたとしても、「このような小説もあるのか」と思ったに違いない。おれがおれのことを言うのだから、たぶんそうだろう。信ぴょう性がある。

 二人は〈ニ〇八〉という名の猫を飼っていた。二人が洗面所の床に新聞紙を敷きつめておくと、猫は新聞紙の上に糞をする。わたしの友人は、〈ニ〇八〉は小猫時代このかた全然他の猫を見たことがないので、自分はこの世で最後の猫だと思っているといった。二人は決してこの猫を外へ出さない。
アメリカの鱒釣りホテルニ〇八号室」

 そして、もう一人似ていると思ったのがミュージシャンのベックだった。表紙の写真を見てそう思った、ばかりではない。「おれは負け犬、さあ殺してみなよ」と歌ってこの世に出たベック。ブローティガン→ベックという流れは知らないが、おれのなかではある種のアメリカ像としてつながりを持った。おれはまだニュー・アルバムの『Morning Phase』を買っていない。『Modern Guilt』の方が先だろうという気になっている。とはいえ、新しい方から行く手もある。悩んでいる間に忘れてしまう、かもしれない。
 ブローティガンは読み続けよう。どうもセリーヌには手詰まり感がある。猫の〈ニ〇八〉とベベール。おれに「セリーヌブローティガンはどちらが好きか? と問うてくれるな。ブコウスキーが世界最高の作家と言った以上、『旅』がある以上、セリーヌじゃないのか、という気もする。しかし、問うてくれるなと。

セリーヌ 1894年5月27日-1961年7月1日
ブコウスキー 1920年8月16日 - 1994年3月9日
ヴォネガット 1922年11月11日 - 2007年4月11日
ディック 1928年12月16日 - 1982年3月2日
ブローティガン 1935年1月30日 - 1984年9月14日?

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