イサーク・バーベリ『オデッサ物語』を読む

オデッサ物語 (群像社ライブラリー)

オデッサ物語 (群像社ライブラリー)

オデッサ市沿海地区には、大横綱大鵬銅像がある。

 というわけで、イサーク・バーベリの『オデッサ物語』を読んだ。嘘だ。読んだのは本当だが、大鵬のことを知ったのは後だ。ほんとうの理由は藤本和子が著書で「ブローティガンが読んで影響受けてたかもしれない」みたいなこと書いてたからだ。あと、反ユダヤ主義セリーヌばかり読んでいるので、逆にユダヤ人の小説を、という何かも働いた。まあ、ほとんど前者ではあるが。
 それにしても「オデッサ」である。ガンダム世代としてはなにかを思い浮かべずにはおられない地名である。あるいは、フレデリック・フォーサイスの『オデッサ・ファイル』だって思い浮かぶ。なにかありそうな地名、少なくとも「ビッグ・サー」よりもなにかありそうな地名らしい地名といえないか。Wikipediaを読もう。ほら、やっぱりそうじゃないか。しかし、おれは大鵬がハーフだとは知らなかったよ。

「うたっているのは、何という鳥かね?」
 私は何一つ答えることができなかった。木々の名前、鳥の名前、その種別、鳥はどこへ飛んでいくのか、太陽はどちらの方角から昇るのか、大粒の露が降りるのはどんな時か……こうしたこと一切が、私にとっては未知の事柄だった。
「そんなふうで、どうして君は文章を書けるのかね? 自然の中で生きることのできない人間は、一生かけても、価値あるたった二行の文章さえ書けやしない。石や獣だって、自然の中で生きているんだよ……君の風景描写は、まるで舞台の書割のようだ。なんてこった、君のご両親は、この十四年間、いったい何を考えて暮らしてきたのだろう……?」
「目覚め」

 本書にはオデッサアンダーグラウンドものと、著者のポグロム体験を含む自伝的短編が収められている。オデッサアンダーグラウンドものはといえば、そのギャングたちの語られかたに、どこか南米のマジック・リアリズムを思わせるようなところもあり、エルロイを思わせるところもあり、乾いていてちょっと奇妙な印象を残す。そして、自伝的体験。迫害されるユダヤ人の希望である、音楽家としての成り上がりに賭ける両親、それに反して文学へ傾倒するイサーク。

ロシア・東欧のユダヤ人の多くは、都会のゲットーの中で閉鎖的に暮らしていたため、自然に接する機会がほとんどなかった。モーリス・サミュエルは、東欧のユダヤ人のイディッシュ語には二種類の花の名しかなく、野鳥には全然名がないと述べている。
「目覚め」訳注

 かなり、想像のつかない世界だ。まあ、日本語の中でもおれの接することのない世界はあるだろうし、おれがまったく語彙をもたない分野もあるに違いないのだが、それにしたって、という。そういうところがバックボーンにあって、オデッサの裏社会が描かれているのかもしらん。いや、イサーク少年は幼少期より広くヨーロッパの文学、文化に触れてきていたわけではあるが。

 クジマは鼻息を立て、私に背を向けると、爺さんのズボンの裂目から鱸を引き出しにかかった。一匹はズボンの裂目に、もう一匹は口の中に、合わせて二匹の鱸が、爺さんの身体にさしこまれていた。爺さんは死んでいるのに、鱸の一匹はまだ生きていて、かすかに身を震わせていた。
「私の鳩小屋の話」

 そしてこの、虐殺の描写が出てくる。こいつはなにかすごいものがある。そのくらいしか言えん。
 あと日本語で読めるバーベリといえば『騎兵』というやつらしい。ちょうどセリーヌの『戦争』を読み始めたところだからタイミングもいい。とうぜん『騎兵』も読むだろう。そのくらいしかないのは残念だ。バーベリは1940年に粛清されたらしい。エジョフの頃か? ベリヤの頃か? 1年差でベリヤの頃だ。だからなんだ。いずれにせよ惜しい話だ。それだけだ。