『ペニスの歴史』を読む

 「女は子宮で考える」という言い方がある。たいていは女性蔑視的な文脈で使われるものだが、本書を読んでいる最中、この時代錯誤的な言葉が、何度もふと浮かんできた。この言葉の当否はさておき、「男はペニスで考える」と反論することもできると思ったからだ。
「訳者あとがき」

 この「訳者あとがき」の書き出しを読んで、ふと手にとってしまった一冊。訳者は女性なのだけれど、「男はペニスで考える」というフレーズは、男である自分にとっても長年の疑問のようなものだったからだ。むしろおれには「女は子宮で考える」なんていうことは想像もできない。おれは子宮を持っていないからだ。ただ、ペニスというやつはぶら下がってる。ぶら下がってるだけじゃくて、ときどきは立ち上がったりもするし、そのままてくてく散歩にも出かけたりする。最後のは嘘だ。ただ、自分の身体の一部でありながら、ときに自分の意思とは関係なく存在しているようにも思えるこいつはなんなんだろう、というのはずっと気になっているところではあるのだ。おれのものなのか、無関係に存在しているのか、それともこいつのためにおれがいるのか?
 ……なんていうことは、前にも書いたことがある。

 (なんで似非関西弁風なんだ?)

 というわけで読み始めたこの本。「歴史」というだけあって、古代エジプトあたりから話は始まり、ローマの話があり……エラガバルスの話なんぞ出てくると、澁澤龍彦兄貴でも読んでるんじゃないかと錯覚したりもする。ただ、幼年皇帝に想像を馳せ、適当なフロイトっぽい解釈くっつけて終わりはしない。

……ローマ人のペニスは国家の道具だった。帝国の最盛期でさえ、ローマ人の平均寿命は二十五歳そこそこで、五十歳まで生きられる男性はわうか百人に四人と、国は死によってむしばまれていた。

 とか、歴史学者の研究なんかが挟まれてくる。ふーん。
 でもって、明るく、元気な、かなまら祭り状態の陽物信仰を一変させたのがキリスト教で、とくにアウグスティヌスが重要やったという。

……アダムの罪は、彼の子孫から罪を「犯さないこと」を選ぶ自由を奪った。この究極的な表れが「肉体の不従順」だ。アダムとイヴは禁断の木の実を食べて神の意志を侮辱したのち、新しい感覚を二つ経験した。それは裸であることを恥じる気持ちと、コントロールできない性的興奮だった。そして、「二人が腰を覆い隠したとき二人を恥じ入らせたもの、まさにそのものを私たちは恥じている」。この「まさにこのもの」とは、自然に起きる勃起だ。

 精液が原罪を次の世代に伝えるのだ……とかなんとか言ってるうちに、ペニスの問題が神学から生物学へとシフトチェンジしていく。レオナルド・ダ・ヴィンチのような天才が、解剖学的に「どうなってんの、これ」と死体ぶった切ってスケッチしたりする。顕微鏡ができれば、ニコラス・ハルトスーケルが「ホムンクルス見たでー」って人間のひな形の入ったオタマジャクシ描いたりする。
 さらに別方向では、18世紀んなると、カストラートが大流行したりもする。あるいは、マスターベーションの罪悪視が決定的なもんになったりする……。というても、どうもこのあたりは「西洋は、キリスト教世界はそうだったんだろうなぁ」とかいう感じを受けてしまう。いや、もちろん、現代日本のわたくしが、西洋文化の多大なる影響の中で生きてきたというのも否定出来ないのだけれど。ただ、日本は宦官やらんかったしね。日本文化を日本文化たらしめている(中国化しなかった)のは、科挙と宦官をやらんかったところだって、だれが言ってたんだっけ。ところで、中国の宦官にはカストラート的な価値は認められなかったんだろうか。ルソー激おこの非人道的な行いとして。
 まあ、それは関係ない。なにが関係ある。マスターベーション。これサミュエル-オーギュスト・ティソ医師というのが、いかにオナニーが身体に悪いか、脳に悪いかを述べて、そいつが流行したって話だ。オナニー害悪論というのも、たぶん二十世紀にもあったろうし、二十一世紀にも生きているかもしれない。あまり見かけないが。ま、いずれにせよ、ティソ先生にしても科学の見地から「あかん」言うたということや。それでもって、マスターベーションを防止するための器具の図なんて出てくんだけど、拷問趣味の緊箍児みたいな代物で、おもわず見ただけで「しませんので」とか言いそうだった。こう、大きくしちゃったら、グサッと、みたいな。
 えーと、そこから話は「ものさし」という章に行って、黒人のアレを見た白人のパニックぶりとか、それゆえにあれは動物なんだって言ったりする、まあ今から見りゃ人種差別の生まれっぷりが紹介され(……それはメイプルソープの時代、つーか現代にまで続く部分もあったり)たりして。
 んで、それでもって第四章のタイトルが「葉巻」で、いよいよ「フロイトが生んだ神話」とくる。人工口蓋までつけて葉巻をやめられないことについて「自分の習癖は同性愛者のフェラチオを示す」と率直に認めたフロイトの話である。この章はフロイトとその周辺の話しであった。
 次にくるのが「破城槌」と題された章で、これはフェミニズムからの見地となる。神学、生物学、心理学ときて、こんどは政治学の俎上に置かれたペニスということになる。これについては、レイプの政治学、ポルノの是非と話は展開する。
 さらには、科学者によって「ペニスうそ発見器」(ペニス・プレチスモグラフ)なるものが造られたという。クルト・フロイントというチェコスロヴァキアの科学者が作った。スクリーン上に映された男性、女性、子供なんかのヌード画像に、ペニスの体積がどう変動するか細かくチェックできる代物という。そういうものはディストピアSFにありそうだが、いや、実際あるのだね。ちなみに、フロイントは政府の命令で同性愛者を発見し、「治療」しろと言われ、亡命したという。
 そして最終章が「割れない風船 勃起産業と新たな神話」。

 このペニスには、宗教の教えにも、フロイトの洞察にも、人種的固定観念にも、フェミニズムの批判にも左右されない。もはや人間的な対話の一部ではなく、モノ、いわば「割れない風船」だ。どんな理由で何度ぺちゃんこになろうと、再び自由自在に膨らませられることができる。男とペニスのとげとげしい関係も、医学によって緩和されたのだ。誰もが人生の大半を費やした権力闘争は終わり、手に負えなかったものが服従し、男の究極の夢が実現した。

 「このペニス」をもたらしたものはなにか。バイアグラ(とそれに続く勃起薬)。インポテンツはフロイト流の精神分析から、泌尿器科の扱う領域になった。そして、それに使われる薬は莫大な富を生み出した。あ、はじめは 睾丸移植の話とか、ちょっと読んでてゾワゾワしたわ。ゾワゾワしたからよう書かない。セルジュ・ヴォロノフという、サルから睾丸を移植する「若返り」手術で莫大な富を築いた医師がいたとかいう。いやはや(もちろん効果はなかった……プラシーボは効いたかもしれないが)。
 そしてまあ、バイアグラだ。今はもうこの本が出たとき(2001年くらい)ほど騒がれてるわけじゃないが、それだけ社会に浸透しているのだろうか。こいつが「男の神話の物語」に終止符を打つ……打ったのか? おれにはよくわからない。著者にもわからないという。なにやら、一人の野郎が赤ん坊から大人になって、老いていくとしたら、それぞれにそれぞれのペニスとの付き合いというものがあって、ときにはフロイト先生みたいな解釈が必要とされるような気もするし、薬でコントロールできるからそれでおしまい、じゃねえだろうな、とは思う。ただ、「薬でコントロール」と書いたときに思ったが、おれはつねづね脳を薬でコントールしておしまいにしえなあと考えている。そういう意味では、なんだ、なんというか、でも、それでもコントロールしたうえでのなにか、があるんだろうね、と今は言っておく。それくらいしか言えない。

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