『渡辺京二評論集成IV 隠れた小径』を読む

渡辺京二評論集成 (4)

渡辺京二評論集成 (4)

 この巻には主として歴史と文学に関するエッセイを集めた。私は小学生の頃から歴史が好きな少年であった。中学の二年になって世の中には文学というものがあると知り、文字通り淫せんばかりであったけれど、歴史に対する好みが衰えることはなかった。私にとってそのふたつはふたつではなく、渾然としてひとつであるべきであった。だからこの巻はかつて書いた『歴史と文学のあいだ』という小文のタイトルを、そのままタイトルとすべきであったかも知れない。そうしなかったのは、そのあまりに凡庸な響きに気がさしたからである。
「あとがき」

 『渡辺京二評論集成』の最終巻を読み終えた。はじまりは『北一輝』だったかで、どんな人が書いたかというのは知らずに入った渡辺京二ワールドだったが、いや、面白いぜ、読んでみなよって言いたくなる。とはいえ、やはり入り口は『北一輝』なり『評伝 宮崎滔天』あたりがおすすめだ。
 で、この巻は歴史についての話が三分の一、あとは石牟礼道子なり夢野久作なり九州の小説家たちなりの評論になっている。おれはこの手の評論を読むとき、困惑してしまう。正確にいえば、評論の対象を読んでいないのにその評論を読んでいいものかどうか、手順前後じゃないかという気持ちである。じつに小さくてくだらない悩みかもしれないが、そういうところがある。とはいえ、地方作家について論じるとき、「こんなにすげえやつがいるんだぜ」って著者は世に知らしめたいという感じもあって、リンク集なりハブなりとして読んでもいいのかもしれない。

 久作のナショナリスティックな一面に注目するのはいいが、それは同時に、彼がそういう宿命に強いられた国士的自覚を、自分のシュールリアリスティックな、つまりはモダニスティックな創作志向と、どのように折り合わせたかということへの注目でなければなるまい。久作という特異な芸術家は、そういう矛盾した綜合のなかからしか生まれえなかった。『近世怪人伝』には、国士的使命感を狂的ないし魔的な衝迫、つまりはシュールリアリスティックな情念に転換しようとする彼の苦肉の策が、露わに読みとれると思う。
夢野久作の出自」

 とか読むと、『近世怪人伝』読みたくなるっしょ。つーか、たぶん読む。

近世快人伝 夢野久作著作集〈5〉

近世快人伝 夢野久作著作集〈5〉

 『あやとりの記』が作者の幼少時の牧歌的な記憶をちりばめたたんなるメルヒェンではなく、南九州の土俗信仰を生かした民話風の物語ですらなく、現実世界の奥のまた奥のところに忽然と出現する異界の物語、言い換えれば、世界が現実の窮屈な枠組を抜け出してよろこばしい変貌を遂げる奇蹟劇であることを、以上のくだくだしい説明で何とかお伝えできたでしょうか。
石牟礼道子の時空」

 とか読むと、『あやとりの記』も、その親戚筋にあたる『おえん遊行』、『椿の海の記』も気になるっしょ。『苦海浄土』には圧倒されたけれども、それ以上に深いところに分け入ってみようかという気になるのよ。

あやとりの記 (福音館文庫 物語)

あやとりの記 (福音館文庫 物語)

 ここに描かれているのは、一言でいえば、社会的に馴化されぬことに歓びを見出す人間の様態である。けものは群れに馴染ませるためには捕獲されねばならぬが、人間は社会的(ソーシャル)であるためには捕らえられ馴らされる必要はない、というのはあくまで一定の準位における真実にすぎまい。強制されねばこのように隠れてものを食いたいけものを、それぞれの中に一匹ずつ飼っている。佐枝子のこの情景における姿態には、単独でありうることのやすらぎが生物的次元において露出していて、そのようなけもののごとき孤独がまた、人間の個の最深のレヴェルでもあることをつよく納得せずにはおれない。それはたしかに「いやらしい」様態であるが、思わず「声を立てて笑」わずにはおれぬような安穏に伴われているのだ。
「『試みの岸』評釈」

 とか読むと、そこまで人間の最深が描かれたうえに、「歴史的時間が流れてはいない」で、「歴史的時間が発酵して流れ出す暗い基層」が描かれている『試みの岸』読みたいなーって思うやん。

試みの岸 (講談社文芸文庫 おI 3)

試みの岸 (講談社文芸文庫 おI 3)

 あとは、なんだ、こんなところとかどうだろうか。

 農民・徒弟以外のいわば市民的な日本人が大量に軍隊に投入されたのは、おそらく先の大戦がはじめてです。軍隊が階層の坩堝になったという意味で、これは日本人にとって大変な経験であったといえます。これはそれぞれ属する階層に封鎖されていた日本人が、軍隊という組織のなかではじめて面突きあわせ、裸の葛藤にまきこまれたということです。戦後はここから始まったのではないでしょうか。少なくとも戦後の平等主義はここに端を発しているはずですし、そのほかにも戦後の日本人の潜在意識でこの経験のなかではぐくまれたものは少なくないと考えられるのです。
「土俗としての戦争・井上岩夫論」

 なるほど、か、そうかな、か。そうなのかもな。そのあたり未だに連綿と続くなにかがあるのか、それとも戦争体験者の減るのにつれて失われていくのだろうかとか、うーん。わからんばい。
 まあ、そんなわけで「評論集成」は読んでしまったが、まだ未読の渡辺京二はあるので、これもまた読んでいかねばならない。渡辺京二は「右か左かわからない」と論難されたらしいが、このクラスでの「右か左かわからない」というのは、ともかく面白いもんだと、おれはそうも思う。おしまい。

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