どこまでも遠くへ〜イーガン『ディアスポラ』を読む〜

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

 映画『インターステラー』、『楽園追放』をたてつづけに観て、頭のどこかのSFスイッチが入った。「もう少し読みたい、もっと読みたい、ガツンとくるやつを!」と。そして部屋の押入れの中でディアスポラしている未読のSF文庫から無事発見されたこいつを手にとった。おお、『インターステラー』×『楽園追放』=『ディアスポラ』!
 本作はハードSFと分類されるものだろう。どのくらいハードかというと、まあそりゃあ固い、すんごい固いぜ。でも、すげえ面白いんだ。安心しろ、文系高卒の、小学校の算数で躓いたおれが言うんだ、間違いない。
 なにがいい小説というかはいろいろの尺度もあって、それこそ読み手次第というところも否めない。ただ、たとえば「どこまで遠くまで連れて行ってくれるか?」という尺度もあるだろう。その遠くは一人の人間の心の内への距離だったり、複数の人間の思惑が綾なして行き着く果てのとんでもない結末だったりいろいろだ。
 そしてもちろん、物理的な距離というやつもある。その点ではSFというジャンルが超有利だろう。なにせ宇宙の果てまで行ける。これは強い。が、あなた、宇宙の果ての「宇宙」ってなんですか? 「果て」とはなんですか? いくらだって「おれは宇宙の果てにたどりついた。わらい」と書くことはできる。でも、「宇宙」ってなによ? 「果て」なら中性子星の衝突の影響から逃げられるの? え、「次元」……、そういうものもあるのか。
 この行ったまんまの行きっきり具合がたまらなくいい。おれはリーマン空間ロバチェフスキー空間もまったくわからないが、このしょうもない現実から遠くの遠く、そのまた向こうまで、二百六十七兆九千四十一億七千六百三十八万三千五十四レベル向こうまで連れてってくれんのがSFのよさだ。時間も、距離も、遠くへ、遥か向こうへ。そこに待ち受ける世界……。
 そして、読み終えたあとに残る、この肉体人の我が身。『ディアスポラ』にはソフトウェア化した人間、肉体人(遺伝子操作人含む)、機械人が出てくるし、微妙に話に絡んでくるところではある(というか主役がソフトウェアの孤児だったりするのだが)が、人間存在とはいったいなんであるか? というところに戻ってくる。できることならばおれを機械の体にしてくれ、いや、永遠に安楽のソフトウェア存在にしてくれ、などと無益な想像をしたりもする。
 結局は引き戻されてしまう。しかし、遠い世界への旅はした。これをしないのはもったいない。誰かれ構わず薦めたくなる気分になる。ああ現実から逃避しよう。おれにとっては魔術と見分けのつかない、すばらしい世界へ……。

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 ソフトウェアはコピーが可能である。宇宙に分散しているわれわれのバリエーションは、まさにブランキをイメージさせた。

 日記で見つかったのはこれくらいだが、他にも読んでると思う(頭がスコーンと抜けてるので、実は『ディアスポラ』読むのが3度目だという可能性がないでもない)。

 『ディアスポラ』の人類の3種に近い形が表されている。しかし、AIについて『ディアスポラ』は大きい部分を占めているとはいえず(もちろんその世界の基盤になっているのだが)、人間中心という感じはする。

 『インターステラー』ではあくまで肉体人とそれを補佐する道具としてのAIか。これの映像を『ディアスポラ』で思い浮かべたかというと「ノー」で、字面からの想像のつかなさを想像のつかないままに飲み込んだ。べつに『インターステラー』やその他SF映画の映像がすごくなかったというわけでもないけれど。