本当は怖い日々是好日

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「日々是好日」というとなんとなく軽くポジティブ、前向きの趣がある。背景の床の間にとりあえず飾っておこうかとか、適当な座右の銘にしようかというところがある。

が、これが本来の禅の世界になるとおそろしい。

雲門垂語して云く、「十五日已前は汝に問わず、十五已前一句を道い将ち来れ」。自ら代って云く、「日々是れ好日」

『碧巌録』第六則

べつにこれだけではおそろしくはない。これが公案になるとおそろしい。「これはどうこうっちゃ?」という問いに対して、まず「昨日は親父の葬式、今日は息子が重病、日々是好日」というのが出てこなきゃいかんというのだ。

ああそうか、「日々」というのはそういうものなのだな、とはじめてその見解を読んだとき、おれは慄然としたものだ。人間の日々とはそういう苦しみや悲しみがあって当たり前だ。日々是好日というからには、親が死のうと我が子が死のうと、日々是好日というからには好日でなくては嘘だ。もちろん自分が一文無しになろうが、死のうが好日なのだ。おそろしい、おそろしい。

とはいえ、それではまだ足りないという。好日らしい好日(なにか良いことがあったとか、小さなしあわせを見つけたとか)の逆をいってるだけじゃないか、と。それじゃあまだまだ好悪の分別、二元論の世界に留まっているという。じゃあその先はなんだろう? 道え、道え、と言われてもおれにはわかりゃあしないのだけれど。

 

 

公案―実践的禅入門 (ちくま学芸文庫)

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