精神年齢―身体―社会性

 もしもおれが20歳のころに結婚し、すぐに子供ができていれば、その子供はもう高校生くらいになっているということになる。もっともおれは20歳のころにはひきこもりのニートで、大学というモラトリアムからさらにモラトリアムの世界に突入していたわけなのだけれど。

 そうしておれはモラトリアムを続けている。というと、まだニートのままのようだが、実際のところは今にも潰れる零細企業にしがみついて、なんとか糊口をしのいでいる。いつからそうなったのか、いまいちポイントが思い出せない。もう15年以上にはなるような気はする。気づいたら正社員になっていた。大学をドロップアウトしたものだから、卒論を書いて一つの分野について一定の見解を得たということもないし、就職戦線を生き抜いたというわけもない。転機というものがなかった。小さな会社では人は辞めるばかりで入ってくることもなく、おれはずっと一番の下っ端だ。それでずっと同じような仕事をしている。なにかスキルを身につけることもなく、人脈が広がることもなく。それでおれは今もなんとなくモラトリアムの中にいるような気がしている。

 というわけで、家庭もないし、車もないし、花を入れる花瓶もない。ただ、なにかまだ20代前半の朦朧とした感じをいだきつづけたまま、ここまで来た。三つ子の魂も二十歳の魂も変わったものではない。魂はかわらない。精神年齢に成長が見られない。おまけに精神疾患まで加わってわけがわからなくなっている。

 一方で時は精確に刻まれるし、それに伴って肉体は老いてくる。哀しいことに老いてくる。避けられるものではない。おれが再びジョギングを習慣にすることになって、体重計が教えてくれる「肉体年齢」が若返ったところで、おれの老いは止められない。おれは「金色の頭ですね」というほどではないが髪を汚らしく染めているし、左耳にはピアスを3つつけている。仕事場に服の決まりなどなく、少し派手な色柄もののシャツやジャケットを着て、下はジーンズ履いてだらだら出社している。こういうものも、20代ならばそういう感じでもそういうものだったかもしれないが、この歳になっては「若作り」という分類をされるかもしれない。

 見苦しい。もとから存在しない学識と学歴、一向に成長しない精神年齢、珍妙な服装。一方で肉体は確実に老いている。総合して、年齢に見合った社会性を欠いているとしか言いようがない。食っていけるかいけないかギリギリの賃金と、それに見合った生活。20代前半なら許されるよね、チャンスがあるよね? でも、もしもおれが20歳のころに結婚し、すぐに子供ができていれば、その子供はもう高校生くらいになっているということになるくらいの年齢。現在地不透明、行き先も不透明。おれはだれにも迷惑をかけず、ちんたら暮らしていきたいだけなのだが、それも許されない。うまいこと自分にけじめをつけられなければ、このままなにもない人間一人路上に放り出されることになるわけだし、そのときに「本来無一物」などという覚悟もない。

 人生に見切りをつけるのが早すぎた。何かをするには遅すぎる。そう言ってる間にも、季節は過ぎていく。コンビニの前でワンカップの空き瓶と一緒に寝ているじいさんが増えいく。