できれば25,000人の側に〜『秋葉原事件』を読む〜

 秋葉原事件についてのノンフィクションである。正直言って、報道やネット上の情報にはないような新事実を知ることができた、ということはなかった。ただ、秋葉原のあの事件について思い起こさせてくれる、密度の高い一冊だった。
 おれの秋葉原事件についての反応。それに関してはWikipediaの方から引用したい。

インターネット上における反応
インターネット上の一部で、加藤を英雄視する見方が発生した。この見方においては、加藤に対して「犯人は神」「格差社会の英雄」「勝ち組に対して事件を起こすことで一矢報いた」「犯人は我々のスケープゴートとなった聖人」などと語られた[95]。しかし、公判で加藤本人の供述が進み、当初報じられたものと異なる動機が明らかになるにつれ、そうした好意的・同情的な見方も薄れつつある。

 おれもはじめは「新しい宅間守が出てきてくれた」と思ったものだった。人生の敗者による一撃があったのだと思った。だが、だんだんと加藤智大の……動機(ネット掲示板についてのあれこれ)よりも人生を知るにつれ、おれのような人間ではないな、と思うようになった。現実は往々にしてそういうものだ。高級官僚が殺された事件にもざわめきを感じたが、結局はよくわからない的外れの復讐劇だった。ペンタゴンに攻撃があっても、世界大戦は起きなかった。
 おれは加藤はおれよりも立派で有能な人間であると思うようになった。共感のようなものは薄れた。なにせ加藤には中学生時代に彼女がいたし、車を所有していたこともある。ネットのオフ会のようなものをしているネト充だし、非正規雇用とはいえおれより収入は多いようだ。それに友人も多い。横の関係も作っていた。職場を変えて気軽に「飛ぶ」こともできたし、車を所有していたこともある。収入もおれよりあったろうし、友人も多い。ローンを払えていなかったとしても自動車を所有していたし、カートで遊んだりしていた。中学生時代に彼女もいたし、運動神経も悪くないようだった。おれは嫉妬によって加藤に好意的・同情的でなくなった。おれよりも高等な人間が起こした事件であって、おれの社会に対する嫌悪感の代わりになってくれるものではなかった。本書を読んでいっそうそう思った。言葉によって意思表示をすることができず、行動に走る性質、ネットにおける「ネタからベタへ」(これって宮台真司のやつって理解していいのかしらん」、あるいはその逆、そんなものが加藤であって、おれとは違う。もっとも、おれと同じ人間というのはこの世にいない。おれはおれだ。
 おれはおれだ。おれはおれの憎悪をおれのただ一人の責任で処すしかない。おれが血気盛んなころ、血中宅間守濃度が高いころであればなにかした可能性が高い。とはいえ、おれは精神病院に通うようになって、すっかり落ち着いた。とくにジプレキサが攻撃性というももの去勢してくれたように思う。おれはただただ不安な人間になった。不安に打ち震えて大量の抗不安剤とアルコールを飲む人間になった。こんな人間になにができるだろうか? 25,000人の一員になることくらいだろう。おれがまだ薬を処方される余裕があるうちに、おれはおれを処さなければならない。おれは攻撃性が低い。おれは不安に打ち震えている。おれは一歩跳躍して、だれの迷惑にもならないように、そっと消えなければならない。なにもする気がおこらず、なにをすることもなく生きてきたおれが、一歩踏み出す勇気。それが必要とされている。おれはべつのところに飛ばなければならない。できるだけ、痛くない方法で、迷惑をかけない方法で。

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……そこそこ前の事件だが、おれはそこそこ前から日記をつけているのだった。

……殺害人数については、ほんとうになんというか、本人すら予期してない規模だったのではないかと思う。

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……この映画は、あんまりよくなかったかな。

……中島岳志見沢知廉の映画で観たくらいかと思っていたが、けっこう読んでいたのであった。