秋月龍みん『鈴木大拙』を読む

鈴木大拙 (講談社学術文庫)

鈴木大拙 (講談社学術文庫)

 おれが最初の最初に禅に関する本を読んだのは、『鈴木大拙随聞記』という本であった。『正法眼蔵』じゃなく『正法眼蔵随聞記』から入る。いや、入っていって『正法眼蔵』読んじゃいねえけど。けど、鈴木大拙についてはいくらか読んだ。いくらか読んで……しばらく読んでなかった。しばらく読んでいないと、自分の中の仏教成分のようなものが減っていって、ゼロに近づいていたから補給した。
 そこで選んだのが、その名も『鈴木大拙』。著者は『誤解された仏教』とかの秋月さんなので間違いはあるまい。おれは再び、鈴木大拙ワールドに脚を踏み入れたのだ。
 ……とか言っちゃいけねえよな。不立文字の世界だ。本だけ読んで理屈の上っ面だけ撫でたところでちゃんちゃらおかしい、「おまえにゃ『理趣経』貸せねえな」、「なんだとコラ」という話である。でもおれは生きている人間というのはたいてい苦手だし、組織というものはすべて嫌悪しているので、只管打坐も瞑想もなんにもしない野狐禅とも言えぬ読書禅するばかりである。鈴木大拙、おもしれえこと言うな。鈴木大拙が紹介する禅者や妙好人はいいこと言うな、とか思うばかりである。

 先生はかつて書かれた。「神が神に止(とど)まっているかぎり、神は神ではない、非存在である。神は神であるためには、神はかれ自身でないところのなにものかを自覚せねばならぬ。神は神でない時に神であるのだ。すなわち神でないものが神の中に存在せねばならぬ。神自身でないところのこの物は、神自身の思い(神の思い―ロゴス)であり意識である。この意識でもって神は神自身から離れ、そして神自身に帰るのだ」(英文『禅による生活』)

 この「般若即非の理論」だか「場所的逆対応の理論」だか「絶対矛盾的自己同一」だかしらんが、「ふーむ」と思ってしまう。
 あとは、たとえば秋月氏(みんは王へんに民、と書くのが面倒なのです)がよく書く一無位の真人のこと。これの鈴木大拙による英訳なんかも紹介されていた。

Rinzai said : "Over a mass of reddish flesh there sits a true man who has no title; he is all the time coming in and out from your sense-organs. If you have not yet testified to the fact, Look! Look!"

 これをGoogle翻訳につっこむとこうなる。

赤みがかった肉の塊にわたりタイトルがない真の人間そこに座って、彼はあなたの感覚器官からと出てくるすべての時間であるあなたは、まだ事実を証言していない場合は、見て見て!!

 「見て見て!!」ってなんかかわいいな。つーか、Google翻訳つっこむ必要もないが。まあ『臨済録』の書き下しも書いておこう。

「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」

 すべての時間、おれのすべての感覚器官に出入りしている一無位の真人がいるってんだ。どこかに探しに行けというでもなく、生み出せというでもなく、それは「あり」なのだ。ここんところだ。盤珪禅師が「仏になる」より「仏である」ほうが楽だと言うところだ。盤珪禅師ときたら、もう衆生の仏なのは不死じゃなく不生だというのだからすごい。あっちでカラスが鳴いてるのに気づいたら、それはもうそれで悟ってるんだって具合だ。楽なのはいい。妙好人なんていうのは、そういう境地に、自然にある。そうであろうという自意識、自力がない。絶対他力、他力本願にある。
 だが、おれやあなたは、なにかが邪魔してそこのところに行けない。行った人間というものには慈悲というものがあるわけだから、不立文字だ直指人心とか言いながら、いろいろ書き残したりする。よほどの身内にしか読ませるなよ、とか言いながら現代のおれが『歎異抄』にアクセスするのは簡単だ。かといって悟りにアクセスして先人たちと眉毛と眉毛を結んで同じ景色を見るのは大変だ。いやはや。
 で、話は変わるけど、こないだ『折口信夫対話集』みたいな本をめくっていたら(ちゃんと読んでないので読書にカウントしない)、鈴木大拙との対話というのがあって(あったから手にとったわけだが)、あんまり話が噛み合ってないんだけど、大拙が「これからは華厳だ」とか言ってて意外に思った。宗派的に鈴木大拙の経歴というと……本書を読めばいいんだけれど、まあ最後に華厳に興味を持っていたようだと。

 「生命を創造するするものは愛である。愛なくしては、生命はおのれを保持することができない。今日の、憎悪と恐怖の、汚れた、息のつまるような雰囲気は、慈しみと四海同胞の精神の欠如によってもたらされたものと、自分は確信する。この息苦しさは"人間社会というものが複雑遠大この上ない相互依存の網の目である"という事実の自覚の欠如から起きていることは、言をまたない」

 と、ここにきて重々帝網の珠玉の反射が出てくる。おれが(禅ではなく)仏教関係の本を最初に読んだのは松岡正剛空海の夢』だった。インドラ・ネットワーク。

 『即身成仏義』においてもっとも注目すべき個所「重重帝網を即身と名づく」という一行であろう。互いの宝珠が互いに鏡映しあっているホロニックなネットワークを、そのままそれ自体として「即身」ととらえた思想的直観は、本書の最後に述べるように、世界哲学史上においてもとくに傑出するものだ。そこには現代科学の最先端のフィジカル・イメージさえ先取りされている。

 とか書いてあった本だ。ふーん。すべては繋がっている。まあ仏教なのだから当然だろうか。まあおれはそこにはなにかある、その考え方、過程になにかあると思って、こんな本を読んでいる。そのなにかというのは、たぶん一神教の神さまでも、大日如来でも阿弥陀如来でもないのかもしれない。あるいはそうかもしれない。そこんところはむつかしい。むつかしいというばかりでは先に進むこともできないが、進むのも面倒だ。バイブルに、神が光あれと言ったとあるが、だれがそれを見ていたのか? それはおれだ、と口にするのも文字に打ち込むのも簡単だ。だが、おれはそれを見ていない。それだけは確かだ。それでどうするんだ、さあ、さあ!

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……という具合に、おれの日記には鈴木大拙の著作の感想が見当たらない。あまりに影響が大きすぎて書こうにも書けないのである。でも、ちょこちょこ出てくる。そういうのもいいじゃないか。なあ。