『清沢満之集』を読む

清沢満之集 (岩波文庫)

清沢満之集 (岩波文庫)

 清沢満之の名前は仏教がらみの本でちらちらと見たことがあって、どんなもんかと手にとってみた。清沢満之(きよさわ・まんし)は文久年間の生まれで、明治時代に活躍した浄土真宗大谷派の人。当時入ってきた西洋哲学なんかにも詳しい。というか、東大の哲学科を主席で出たりしている。
 さて、どんな思想というか、信心を持っていたかといえば、こんなところである。

 私の信念は、ドンナものであるかと申せば、如來を信ずることである。其如來は私の信ずることの出來る、又信ぜざるを得ざる所の本體である。私の信ずることの出來る如來と云ふのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら獨立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本體が、即ち如來である。私は何が善だやら何が惡だやら、何が眞理だやら何が非眞理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、ナンニモ知り分る能力のない私、隨つて善だの惡だの、眞理だの非眞理だの、幸福だの不幸だのと云ふことのある世界には、左へも右へも前へも後へもドチラへも身動き一寸することを得ぬ私、此私をして虚心平氣に此世界に生死することを得しむる能力の根本本體が、即ち私の信ずる如來である。私は此如來を信ぜずしては生きても居られず、死んで往くことも出來ぬ。私は此如來を信ぜずしては居られない。此如來は私が信ぜざるを得ざる所の如來である。
「我は此の如く如来を信ず(我信念)」

 ふぅ、打つの疲れた。……というのは大嘘で、この箇所は青空文庫から引用した(のにチョットだけ本に合わせてカタカナに打ち変えた)。

 というわけで、絶対他力の人である。「たりきには じりきもなし たりきもなし ただ いちめんの たりきなり」とは浅原才市だが、やはり浄土真宗というのはこうでなくっちゃいけない。……というのは鈴木大拙の影響を受けすぎているのかもしれないが。

 無限大悲の如來は、如何にして、私に此平安を得せしめたまうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるることによりて、私を救濟したまふことである。如何なる罪惡も、如來の前には毫も障りにはならぬことである。私は善惡邪正の何たるを辨ずるの必要はない。何事でも、私は只自分の氣の向ふ所、心の欲する所に順從て之を行うて差支はない。其行が過失であらうと、罪惡であらうと、少しも懸念することはいらない。如來は私の一切の行爲に就いて、責任を負うて下さるゝことである。
「我は此の如く如来を信ず(我信念)」

 なるほどまあこのあたりなど「明治の歎異抄」というあたりだろうか。もちろん、気の向かうところでなにをやってもいいんだ、気に入らないやつはぶっ殺してもいいんだって具合に論理(信心?)武装してしまえば、それは「本願ぼこり」とかいうものになってしまうだろう。わざわざ毒を飲むことはあるまい、とかいう。しかしまあ、仏教が寛容だというならば、ここまで行かなければ嘘だろうなという気はする。もっとも、一神教の神がここでいう如来と同じく一切を引き受けてくれるというのならば、それもまた一つありだろうか。そのあたりは、両者の対話の中に見てみたいところではあるし、どっかしらそういう本もあるだろう。いずれ読もう。
 生死に関してはこんなふうなことを述べている。

 吾人は死せざる可からず。吾人は死するも、尚お吾人は滅せず。生のみが吾人にあらず。死も亦、吾人なり。吾人は生死を並有するものなり(正反対のものを並有するは大矛盾なり)。吾人は生死に左右させらるべきものにあらざるなり。吾人は生死以外に霊存するものなり(是れ死生を外にする云々の根基也)。然れども生死は吾人の自由に指定し得るものにあらざるなり。生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり(而して生死は只、吾人以外の身体に関するものなり)。然らば吾人は生死に対して喜悲すべからず。生死、尚然り。況んや他の転変に於てをや。吾人は寧ろ宇宙万化の内に於て、彼の無限他力妙用を嘆賞せんのみ。
『臘扇記』

 「正反対のものを並有するは大矛盾なり」と言っているのがおもしろい。ところが、その大矛盾をここではスルーして他力の「妙用」を嘆賞している。大矛盾は大矛盾としてあって(即非というやつ?)、そのままに「霊存」している。「霊存」とはなんだろうか。ほかの箇所で西洋の考え方が入ってきて、みなマインドばかり注目して、スピリットを忘れているというようなことを書いていたと思うが、そのスピリットだろうか。また、「妙用」については、鈴木大拙が「真空妙有」ではなく「真空妙用」であることが大切みたいなこと言ってたように思うが、さておれにはわからん。
 鈴木大拙といえば、「宗教から道徳は出るが、道徳から宗教は出ない」というようなことも言っていたように思う(道徳じゃなくて倫理だったかもしらん)。清沢満之は道徳についてこう述べている。

……其に如何なる妙趣あるかと云わば、先ず未だ信心を得ざるものは、道徳的実行の出来難きことを感知するよりして宗教に入り、信心を得る道を進むようになる。此は一寸見れば何でもないことの様なれども、中々そーではない。他力の信仰に入る根本的障礙は、自力の修行が出来得るとの様に思うことである。其自力の修行と云う事は色々あれども、其最普通の事は我等の倫理道徳の行為である。
「宗教的道徳(俗諦)と普通道徳との交渉」

 普通道徳の、すなわちなにかこう、いいことをしようとしてできなかった、しても失敗した、そういうところから他力の宗教に入る。そこに入り口がある。とはいえ、なかなか簡単な話じゃないぜ、という。そりゃあそうだ。おれのような下流の者だって、できれば良い行いをしたいと思うし、人に迷惑をかけたいとも思わない。かといって、なかなかうまく生きることはできない。この無能、存在自体が社会の迷惑だ。そうはわかっていても、それを100%認めて、おのれの無能をつきつめ、先の「何が善だやら何が惡だやら、何が眞理だやら何が非眞理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、ナンニモ知り分る能力のない私」の境地に達するのはどーも六かしい。虫けらのような人間にだって自我があって、自尊心の欠片くらいはある。それを放下して、融通無碍の境地であらっしゃいというのは、なかなかにできることじゃあない。おれが本当の本当におれを諦めたときに他力なり如来なりのはからいに身を任せられるのかどうか、それこそ信に入ることができるかどうか、そうアタマで考えてしまう。そんなふうに考えるのは無駄だからやめりゃあよろしいと盤珪禅師なら言うかもしれないが、倫理道徳から離れたところに行くというのは、なにか空恐ろしいものがある。その空恐ろしさも仏教の魅力だとは思うのだが。

 諸法無我の一面のみを露呈せるものも仏教なり、我空法空の二面を露呈せるものも仏教なり、諸法皆空の多面を露呈せるものも仏教なり、諸法実相も仏教なり、事事無礙法界も仏教なり、三密加持入我我入も仏教なり、直指人心見性成仏も仏教なり、南無阿弥陀仏も仏教なり、南妙法蓮華経も仏教なり。
「仏教の効果は消極的なるか」

 とまあ、仏教といっても並べられてみると色いろあるわけだが。しかしまあ、ほとんどの宗派が「べつにおれは一宗派じゃねえよ」とか言ってるわけだし、なにより仏教にとって嘘も方便の方便がどれだけ価値のある言葉かというあたりもあろうて。いやはや。
 さて、最後になんか清沢の日記が乗ってたので、一日分を紹介して終わる。なにがあったらこう感じるのだろう。あるいは、なにもなかったのかな?

 本日、特に生活の無趣味を感ず。 (五月二十二日)