日本語でおk……? 中村元『龍樹』を読む

龍樹 (講談社学術文庫)

龍樹 (講談社学術文庫)

 『中論』の思想は、インド人の深い哲学的思索の所産の中でも最も難解なものの一つとされている。その思想の解釈に関して、近代の諸学者は混迷に陥り、種々の批評を下している。そもそもナーガールジュナが何らかの意味をもった立言を述べているかどうかということさえ問題とされているのである。
「空論はニヒリズムか」

 日本仏教は「ガウダマ・ブッダの仏教」というよりは、「ナーガールジュナの仏教」と考えた方がいいかもしれません。釈徹宗『法然親鸞一遍』について語るときに僕の語ること - 関内関外日記(跡地))なんて一文を読んでしまったせいで、ナーガールジュナ=龍樹が気になってしまった。気になってしまって、タイトルそのものずばり『龍樹』を手にとってしまったわけだが……。上に引用したように、何らかの意味を持ってるかというレベルで問題になる難解な代物なのである。いくら日本仏教八宗の祖師といったところで、遠い昔のインド人の哲学である。正直いって手に負えないというのが第一観である。
 そもそも、おれは鈴木大拙が言うところの、インドの思想が中国、朝鮮半島を経て日本で完成した、的な考えに安住したいところがある。あるいは、密教いうものがやはり西の方から来て空海が完成させたといってもいい。べつにそれが生まれた地に通用しなくても、日本には日本の国土があり、風土があり、思想があり、そこに一つの完成があればいいと思うのだ。どの宗派かわからんが、ともかく日本仏教をもって中国人なりインド人なりを折伏する必要はねえだろう、と。
 とはいえ、まあなんだ、アーナンダー、ちょっとはそもそものところを覗き見るのもいいか、くらいの話ではある。でもって、ナーガールジュナ、中論、なんじゃこりゃという具合である。こりゃ鳩摩羅什もエロチック透明人間SFみたいなの書くわ(wikipedia:龍樹参照)とか思ったりした次第である。
 が、それでも読みきったのは中村元先生が(といって中村元本を読むのはたぶんはじめてなのだけれど)、まず思想の解説から入り、そのあとに決して長くはない『中論』を紹介する形式で、懇切丁寧に……と言いたいところだけれども、東西の思想を縦横無尽に引いてきて、学のないおれはそこでもお手上げ感はある。なにせ『中論』がいろいろの別宗派・思想への反論でもあって、ならばその反論の相手はどうであったか、という話にもなり、あるいは後世の何種かの『中論』解釈でそれぞれどう扱っているか、中国語にどう訳されたかなんて話にもなり、いやはや、もう。でも、読み切ることはできた。頭に入ったとは、とてもじゃないが言えないけれど。
 以下、適当に「まとめ」的なところを引用する。

 かんたんにまとめていえば、その最後の目的は、もろもろの事象が互いに相互依存または相互限定において成立(相因待)しているということを明らかにしようとするのである。すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから、もしもその相関関係を取りさるならば、何ら絶対的な、独立なものを認めることはできない、というのである。
「論争の意義」

 ようわからんが、たぶんこの「相互依存」というものがキーワードなんだろうと思う。そして、それ以外のものを否定していく。否定の嵐である。ゆえに虚無主義と捉えられる場合もある、のだろう。

 すなわちもろもろの事物はそれ自体の本性を欠いていて、縁起せるが故に成立しているのである。各註釈において無自性と縁起とは同義に用いられているが、とくに、年代は後になるが、ハリバドラは、無自性とは縁起の意味であると明瞭に断言している。
 したがって、『中論』は空あるいは無自性を説くと一般には認められてはいるが、それも実は積極的な表現をもってするならば、少なくとも中観派以後においては「縁起」(とくに「相互限定」「相互依存」)の意味にほかならないということがわかる。
「空の考察」

 というわけで、また重要なキーワードであるところの「空」、「縁起」が出てくる。とはいえ、「一切皆空であるが故に一切は成立しているのであり、もしも一切が不空であり実有であるならば一切は成立しえないではないか」とか言われると、なんのこっちゃとなってしまう。このあたりは、おれの知能(ないし知的努力)の限界であって、おれは平屋だが二階で話しているやつがいる、という感じになってしまう。

 嘉祥大師吉蔵も或る箇所では縁起と中道とを区別して考えているが、また他の箇所では両者を同一視していることも少なくない。
 またたとえ中道という語を用いなくても、縁起は有または無という二つの一方的見解を離れていると説明されている。その他、これに類する説明はしばしば見受けられる。したがって中道は有と無との二つの一方的見解を離れることである。

 で、中観、中道ってなんぞやとなると、「縁起」やいうことになる。「空」を説いたというと「無」の思想っぽいけど、そうじゃねえんだ、両者を離れたところを説いたから中道なんじゃ、ってことかしらん。とかいってると、ニルヴァーナとかいう言葉が出てきておれさらに困る。

 ともかく、ナーガールジュナによると、ニルヴァーナは一切の戯論(形而上学的議論)を離れ、一切の分別を離れ、さらにあらゆる対立を超越している。したがって、ニルヴァーナを説明するためには否定的言辞をもってするよりもほかにしかたない。
「捨てられることなく、[あらたに]得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。―これがニルヴァーナと説かれる」(第二十五章。・第三詩)
「否定の論理の実践」

 ニルヴァーナといえばゴールドアリュールの……とか、カート・コバーンが……とか逃げたくなるが、そうもいかん。そうもいかんニルヴァーナ。涅槃の境地? まあ、なにか一切の戯論を離れなんちゅうところには、禅の頓悟みたいなもんにつながるのかなと思ったり。まあ、相互依存の話も華厳の感じとかするし、やっぱり祖師なんやなーとか、適当に思っておく(しかないじゃない)。とか、思っていたら。

 われわれの現実世界を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ諸事情の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。
 『中論』の帰敬序において、「八不、戯論の寂滅、めでたさ」が縁起に関していわれているが、これらは元来ニルヴァーナに関して当然いわれるべきことである。しかるに縁起に関してこれを述べるのは、相互関係において成立している諸事象とニルヴァーナとの無別無異なることを前提としているのである。
 これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながら生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
「否定の論理の実践」

 このあたりは、なんちゅうのか、例えば「臨済録」で外に求めるなって言ったりするのを思い浮かべたりするのだけれど(『臨済録』朝比奈宗源訳注 - 関内関外日記(跡地))。ここでもまた、束縛でもなく解脱でもなくというところに「中」な感じがあるんだろうかとは思うが、さて。それでもって、色即是空、空即是色じゃないが、ブッダについてこんな見解を出してくる。

 では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。ニルヴァーナが世間と異ならないように、この無戯論なる如来も世間と異ならないと主張している。
如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質を持たない」(第二十二章・第十六詩)
「否定の論理の実践」

 それでもって、如来の仏身とは縁起の理法そのものだと……。はあ。
 まあ、てなぐあいに、なーんとなく自分のわからんなりにわかりそうなところをメモしておく。それでもって、この本は手元においておく価値のある代物だとは思う。置いておきたいとは思う。わかりゃあしないが、なにかしらまだまだ参照したくなるときが来そうな、そんな気にさせてくれる本なんだ。とはいえ、『中論』全文載ってるけど、まあ意味わからんで。そんなかでも意味わからんでも、印象に残ったところを引用して終わる。

 まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉も去らない。

 「第二章 運動(去ることと来ること)の考察」の「一」。この調子で考察していくんだぜ。まるで、なんというか、なんだろうか……。やっぱりわからん。文化がちが〜うとでも言っておこうか。とりあえずおしまい!

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日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

……種があっても適した大地がなければそだちゃあしない。そんでもって、日本には仏教を受け入れて育てる素地があったんだぜ、みたいなことを言ってたかと思う。
空海の夢

空海の夢

……空海についても、そんなんあるぜというような。