オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』を読む

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

 わたしはマルタにこう言った。人はみな、ふたつの家を持っている。一つは具体的な家、時間と空間のなかにしっかり固定された家。もうひとつは、果てしない家。住所もなければ、設計図に描かれる機会も永遠に巡ってこない家。そしてふたつの家に、わたしたちは同時に住んでいるのだと。
「屋根」

 ポーランドの作家による本作は、111の挿話から成り立っている。「わたし」と夫のR、老婆のマルタの話。インターネットの夢のサイトの話。キノコ料理のレシピ。大昔の聖人伝の話とそれを書いた人の話。戦争の前後の話。これらが他の話に顔を出したりしつつ、混然として、なおかつ確かに描かれていく。
 正直なところ、おれは無学にしてなおかつ日本から出たこともないので、ポーランドチェコの国境の村という設定から、あれやこれやを自動的に想像することはむずかしい。非常に土着性の強い小説でもある。とはいえ、えてしておおよその小説がそうであるように、人間や世界のことが書かれているようなので、読むことができる。キノコのレシピも翻訳されていれば意味がわかる。食べられるキノコのレシピがどれだけ入っているのかわからないけれど。

 この話をマルタにしたのは、ルバーブを束ねているときだった。わたしたちが作業を終えたとき、マルタが言ったのは以下のようなことだった。人が「いっさい」とか「いつも」とか「けっして」とか「あらゆる」とか言っても、それを言っている本人にしか通じない、だって現実の世界にはそんな一般的なことなんか存在しないんだから。
「宇宙発生論」

 非常におもしろい、すごい出来だ、奇想天外な構成だ、とまでは言わない。言わないけれど、悪くない。そんな本だ。ときおりエッセイのように世界観や人間観が出てくる。その考え方の開陳もなかなかに鋭いように思われる。あるいは、身近な考え方に近いようにも思われる。ポーランド人と日本人に共通するところがあるのか、著者が軽く仏教に興味を抱いている(訳者あとがきによると)せいかはわからない。あるいはキリスト教文化圏においては特殊な輝きを放っているのかもしれないが、おれはやはりキリスト者でもないのでわからない。

 夕方、マルタのところへ、若くて年老いたこの植物を持っていくとき、わたしはふと考えた。こんなふうに、ずっとずっと生きつづけるのは退屈だ。植物が感じられるたったひとつの感情は、退屈であるにちがいない。マルタはわたしに賛成した。そしてアロエを窓台に置いて、こう言った。
「死ぬのがそんなに悪いことなら、人はとっくに死ぬのをやめているはずよ」
アロエ

 ところでおれは111の挿話のなかでいちばん好きなのは「マレク・マレク」という一編だ。暗い話だが、酒をたくさん飲んでいるのでいい感じだ。ひどい感想だ。まあいい。ポーランド、さて、どんなもんだろうか。ほかにもあたってみようか。まあいいや、おしまい。