新選現代史文庫『新選 吉増剛造詩集』を読む

 吉本隆明はこんなことを書いた。

 わが国でプロフェッショナルと呼べる詩人は、田村隆一谷川俊太郎吉増剛造の三人ということになる。

 『続続・田村隆一詩集』の巻末に書いてあった。なにかわからないが、すごく好きな一文である。もちろん、おれが田村隆一大好き人間ということもあるが、「三人ということになる」とか言い切るあたりがしびれる。この文言はWikipedia先生でいえば田村、吉増の項に引用されている。
 して、これには続きがある。見てみよう。

 わが国でプロフェッショナルと呼べる詩人は、田村隆一谷川俊太郎吉増剛造の三人ということになる。田村隆一はその第一号だ。西脇順三郎金子光晴もプロフェッショナルな詩人とはいえなかったし、ましてそれ以前は偉大な北原白秋をのぞいてはひとりもいない。このプロフェッショナルというのは、詩を職業としているという意味ともちがうし、まさしく詩が専門だといえるほどとびぬけていい作品をうみだしたということとも、すこしだけ違う。詩を書くこと、あるいは書かれた詩が確実に生(生活とも生命とも違う。むしろ生涯というのに近い)を削った行為になっているというほどの意味になる。ほかの詩人はいい詩人もだめな詩人も、そのいいことにおいて、まただめなことにおいてアマチュアといっていい。これはわたしの永いあいだの思い込みだ。

 ふーむ。「生を削る」か。なにやらすごいことだ。なにやらすごいなら、すごいものを見てみたいと思うのが人情というものである。ならば見てみよう。

 というわけで、吉増剛造である。吉増剛造がテレビで「ミラーコロ」言ってるのは見たことがあるが、詩集は読んだことがない。

 が、なんだ、この本の裏表紙にはこんな大岡信の解説の一部がある。

もし読者が、たとえば「世界が曲がっているから音楽だ!」という吉増剛造の断言肯定命題に対して、「何のことか、それは?」という疑問を発し、それにこだわるなら、その種の読者はすでに吉増剛造の世界に入ることができない読者であろう。

 とか書いてある。
 あるいは、吉本隆明の『現代日本の詩歌』でもこの調子である。

 吉増剛造さんは、ある時期まで現代の純粋詩人と同じような作品を書いた。しかし、吉増さんだけが形式的に自在に日本語の象徴表現を極限まで突き詰め、発見していったといえる。およそ現代の詩人が日本語で詩を書く時に考えられると思われる試みすべてが入っているといっていい。

 もう一つの特徴は「言葉の意味はゼロである」という方法意識だ。「この詩人を読んでも誰も分かるわけはない。分かったら不思議だ」といえるほど意味は通じなくていい。けれど詩の表現としての価値はどこまでも多様化し、深めようというモチーフであり、これは吉増さんという詩人がただ一人、極限まで突き詰めていった方向でもあった。

 なるほど、わからん、詩なのだろう。ということで、現代詩文庫を開いてみれば、ほら、なるほど、わからん。「何のことか」という疑問を拒絶して疾走している困ったもんである。いやはや、というところである。おれにポエジーはないのだ。そのスケールに、着眼点に、言い回しに、振り回されてズダーンと転ばされる感じがする。なんとも。

太平洋

はすっかいに
織っていった
恐るべき
日輪

スライダー。
ひろしま

外木場
も。

―「スライダー」部分

 そうか、外木場義郎の決め球はスライダーだったのか。とはいえ、Wikipedia先生によれば「メジャーリーグにおいて "power curve" と呼ばれる、曲がりの鋭さで打者を翻弄する」カーブだったという。これが詩人の目にはスライダーに見えたのか? いや、意味なんて考えるな。詩人の言葉はカーブし、スライダーしていくのだ。それだけだ。ようし、おれにはわからん。入れん。断定しよう。
 と、こうなるとあとは谷川俊太郎ということになる。国民的メジャーさとなれば第一であろう。いずれ読んでみよう。吉本隆明は次のように述べる。

 谷川さんの本格的な詩、純粋詩の特徴は何かといえば、第一詩集『二十億光年の孤独』からそれほど変わっていないと思う。谷川さんの詩は、「倫理的でないこと」を意識的に主題にえらんでいることが特徴だ。

 誰でも人生の中で何割かは、どういうことをしても一生なんてつまらないものだと考えたり言ったりしても、残りの何割かでは倫理的に生きることの意味を考えているものだ。ところが、谷川さんには若い時から倫理的な要素があまり鮮やかではなくて、そういう資質を深めていくとこうなるという珍しいタイプの詩人のような気がする。うがった見方かもしれないが、この詩人の原点には、自らの出生に対して「望んでこの世に生まれたわけではない」という思いがどこかにあるのではないか。

 フムン。どこか「国民的詩人」との感じさえする谷川さんの「倫理的ではないこと」。はたしてそんなことを感じることができるのだろうか。まあ、いずれのこと。