ドキュメンタリー『311』を観る

 

311 [DVD]

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 おれは森達也の『FAKE』を観た。もっと森達也を観なければいけないのではないか、という気になった。となるとふつうは『A』、『A2』に行くところであるが、これがおれの利用しているサービスに見当たらない、別のところで見つけたので、それ待ちである。

というわけで、『311』を観た。『FAKE』の舞台挨拶でも、これに関しては歯切れが悪かった。空白期間について語ったときだ。能動的に撮った自分ひとりの作品ではない、というような感じがした。

して、そのとおりであった。4人のドキュメンタリー監督(?)が被災後の福島を行く。やがて、カメラは森達也に向けられ、森達也のカメラの映像になる。そのような印象があった。そのような印象が正しいのかどうかわからない。ただ、『FAKE』でも語っていたように、被撮影者を傷つけないことはない、というのは確かだな、と思った。

『311』で遺体にカメラを向けた森達也監督、クソ映画と言われ、物を投げられ…なぜ撮ったのか? - シネマトゥデイ

 結果、3.11関連作品では異色の被災者ではなく、取材する側の戸惑いを映したセルフドキュメンタリーとなった。しかし初めて試写を行った夜に一悶着あったという。最年少の松林が、酔った勢いで「こんな森さんの自傷映画を誰が楽しむんだよ!(中略)楽屋落ちのクソ映画じゃねえかよ!」と暴言を吐いた。怒った森がプロレス技のスリーパーホールドをしかけ、松林を秒殺したエピソードが本の中で明かされている。

森達也はスリーパーホールドの使い手であったか。むろん、被災者にスリーパーホールドはしかけない。とはいえ、スリーパーホールド以上のしかけをしてしまっているかもしれない。そのあたりを、おれはなんといえばいいのだろう。被災者、遺族といった当事者、それを撮るメディアという当事者、その当事者を映像作品として観るおれ。なんというか、グロテスクのようにも思える。とはいえ、おれには被災者に寄り添った感情があるなんて言えるわけもない。むしろ、「おれがカメラを持って被災地に行ったら、同じようにこれを撮り、文章を書いてしまうのだろうな」という気持ちのほうが強い。

賛否両論、というべきかどうか。いずれにも立場がある。離れられない立場だ。ただ、この映像が価値を持つのは10年後、50年後、100年後ではないか、というのは言い過ぎではないように思える。なにがどうあれ、その時でなければ残されないものが残された。そこには価値がある。そのように思えた。

 

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