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中島義道『反〈絆〉論』を読む

 

反〈絆〉論 (ちくま新書)

反〈絆〉論 (ちくま新書)

 

 数年前のダービーをキズナという名前の馬が勝った。おれはキズナにも武豊にも(馬券的に損をしたという以外の)恨みはないが、キズナという名の馬が震災後のダービーを勝ってしまうということに付随するあれこれについて、あまりいい印象を持たなかった。たとえば、こんな調子の。

【競馬】キズナ驚異の“種牡馬能力”/オピニオンD/デイリースポーツ online

種牡馬となったキズナ。一体、何がすごいのか?佐々木師によると、まずは“種付けに臨む姿勢”がすごいらしい。「とにかく腰が強い。普通、種付けの際には前脚を(繁殖牝馬の)肩に巻くんだけど、キズナの場合はそれがお腹のあたりなんだ。驚いたね。しかも、普通は首をかじってバランスを取るんだけど、キズナはき甲(馬の首と背の境にある膨らんだ部分)を噛んでいた。あんな馬は見たことがない」。

フハッ、とにかく腰が強い! そして変態的な体位 ……って、引用する記事を誤ったようだが、まあどうでもよろしい。

〈絆〉とは麗しい言葉である。だからこそ、そこには人を盲目にする暴力が潜んでいる。本書で私が語りたいのはこのことである。p.13

おれのようなひねくれもの(続けて中島義道の本を読むような)なら、もう「まえがき」のこれだけでもいくらか了解したような気になってしまう。なんか、嫌な感じがあるよね、と。だが、「感じ」というのも危険なものだ。だから、その正体を腑分けして、あちらこちらから眺めてみる必要もある。たとえば、死者はそれぞれひとりひとりの死を迎えたのに、数字として語られてしまうこと、物語として消費してしまうこと。これについて、哲学者が語ってくれるのだ。耳を貸すべき。

 ……で終わっていいのだが、いくらかメモ。

 ニーチェの『力への意志』の「序言」の1には次の言葉がある。

 

大いなる事物はそれについて沈黙するか、大いに語ることを要求する。大いにとはシニカルにそして無垢にということである。

 

 この言葉がわからなければ、他の言葉をいかに理解したとしても、ニーチェが体感的にわかったことにはならない。p.48

はあ。いや、若気の至りでニーチェなんかをかじったこともあるけど、意志もとい石をかじるようなもんで無理あった。そしておれは西洋哲学というものを算数の次くらいに苦手にしている。とはいえ、算数より興味はあるのでこれをメモしておく。

「人生は虚しくない」と思い込もうとしている輩(マジョリティ)は、まさにそう語ることによって、意図せずに「人生は虚しい」という人生の相貌を開いてしまう。「人生は虚しくない」と思い込もうとすればするほど、それはもしかしたら嘘ではないかという疑いに取りつかれてしまうのだ。

 逆に、「人生は虚しい」と思い続け、語り続けている輩は、そう語ることが真剣であればあるほど、意図せずに人生における「虚しくないたった一つのもの」を探り当ててしまう。それは、まさにそう語り続けることにほかならない。p.53

偉そぶって言うわけでもないが、おれは(マジョリティ)には入れない人間だ。どうしてもうまくいかなかった。この筆者と同じように学校やらなんやらの集団行動に疑問を持ち、同級生やらとの絆をブチブチ断ち切って、今や幼稚園から大学(中退)までの間に知り合った人間のだれ一人とも連絡をとる手段を持っていないし、また向こうからおれを探しだすことも無理だろうと思う。そして、おれはそれを幸福に思う。マイルドヤンキーとやらの正反対、ガチぼっち? だ。そして、「人は弱いから群れるのではない、群れるから弱いのだ」などと、どっかのだれかの言葉をうそぶいたりしている。

みずからを非社会的であると自覚している人(中学生のころからわかるはずだ)、そのころから、自分にとって生きやすい環境をつくる準備をしておかねばならない。p.111

しかしまあ、そうなんだよな。おれはそれに失敗した。スタートでわかっていなかった。おれは自分の非社会的な部分を承知しながら、だったらどう生きるのか、という視点を欠いていた。小学生のころから漠然と「サラリーマンになるのだろう」とか思っていた。失着といっていい。ひとりが許される職業に就くための戦略が必要であった。もしもこれを中学生の君、そこの君がたまたま目にしていたら、弁護士や医者なんかになる準備をしておいてもいいだろう。

が、しかし、それに続いて中島先生はこうおっしゃる。

(2)信頼できる仲間を数多く持つ。現代日本には、非社会的な人は夥しく生息しているが、非社会的であるがゆえに互いのネットワークがないのが現状である。ひとりで生きていくことを目指す人々のまさに〈絆〉があっていいはずなのだ。p.112

こうくるのである。なんか話が違うんじゃねえかという気にもなる。とはいえ、マジョリティのそれとは違う人間関係、ネットワークってもんがありゃしねえか、と提言されているのだろう。

カントは『判断力批判』の中で次のように言っている。

 

自足していて、従って社会を必要とせず、とはいえ非社交的でなく、すなわち社会から逃避するのではない状態、これにはいかなる点でも欲求を超えている状態と同じく何か崇高に近いものがある。

 

 これは私の言葉に直すと「自発的孤独」であって、これこそある種の人にとって生き方の理想かもしれない。p.142

ふむふむ。しかし、カントはこれに続いてこのように書いているという。

 これに反して、人間を敵視するがゆえの人間嫌いによって、あるいは人間を自分の敵として恐れるがゆえの人間恐怖(人間に対する怖気づき)によって、人間から逃避するのは、醜いし軽蔑に値いすることである。p.152

グサッ。これはきつい。この「受動的孤独」がぶった切られると、おれのようなものは醜いとしか言いようがない。著者は、「自分も含めて」人間が汚いといっているなら救いはあるというようなことは言っているのだが。そして、自発的と受動的の間を採れ、と。まあ、いずれにせよ孤独なのだけれど。

 しかしまあ、この本とか、「そうだ、その通り!」と思う人間も少なからずいるだろう。夥しく。しかし、マジョリティでもない。その割合っちゃあどんなもんだろうね。国勢調査じゃわからんよな。とはいえ、マジョリティとされているものじゃあない、とおれはおれを規定している。だからおれは、「少数のもののために手紙を書く」(田村隆一)のだ。宛先もなく、消印もなく。