食えねえおっさんだな―『ドキュメント・森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』

 

ドキュメント・森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』 (DVD付)

ドキュメント・森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』 (DVD付)

 

 このA点とB点は誰が決めているかということです。誰かが決めなくてはならない。もしかしたら両端はAとBじゃなく、AとCかもしれない。だとしたら中立の位置は……ぜんぜん変わってしまいます。

 つまりどこに座標軸を置くかで中立点は変わる。それは天から降ってくるものでもないし、永遠の真理としてあるものでもない。誰かが決めなくてはいけない。プロデューサーであったりデスクであったり編成局長であったり視聴者であったり。もしくは自分であったり。

 ってことは中立っていうこの概念も主観なんです。誰かの思いです。P.064

図書館で本を借りてみたら(ということはあまりおおっぴらに言うと恥なのは承知だが、おれは貧乏という恥の人生を送っているので仕方がない) 、DVDがついてきた。そういうこともあるのか。というわけで、森達也の『ドキュメント・森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』である。テレビ東京で放送されたという森達也のドキュメンタリー番組一本と、それにまつわる話の入った一冊である。

森達也というと、おれにとっては目下のところ『FAKE』の監督ということになる。

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あの『FAKE』はどこまでがガチで、どこまでがプロレス(あえて使わせてもらう)だったのか。この『ドキュメンタリーは嘘をつく』にしたって……、あとから、いや、その場でiPhoneで人名検索できてしまう時代に、どこまで嘘をつけるのか、というところはある。とはいえ、すべてが嘘ではない。『ゆきゆきて神軍』(名作!)の原一男をはじめとしたインタビューはガチといっていいだろう。そして、いろいろのドキュメンタリー監督が言うことには共通項があるといってもいい。中立だの不偏不党なんてものは存在しない。そして、ドキュメンタリーの監督というものは(映像作家とうものは)、ジャーナリストともまた違う。

森――僕はどちらかといえば善人のほうだと思う。原(一男)さんなんか、殺人教唆だもの。奥崎謙三という人、原さんの被写体になった人だけど、彼は最後に殺人未遂で逮捕されるんですけど、原さんがいたからそこまで行っちゃった。そこまで追い込むわけですよ。被写体はそれに合わせて、演技するわけですよ。P.116

これである。原一男は本書で「ハンマーでぶったたいてやるような」とか、「湖面に石を投げ入れてさざなみをおこす」というようなことを言っている。

そういう視点であらためて『FAKE』を思い起こす。佐村河内守をどうハンマーでぶったたいたのか。どういう「さざなみ」を彼に起こしたのか……。

そして「嘘」はどこにあるのか?

なるほど、本当にもう一回『FAKE』を観たくなってくるじゃねえか。そしてまた、こんなことを森達也は語っている。

 実のところこの作品には、大きな欠陥がある。「ドキュメンタリー(メディア)は嘘をつく気になれば容易くできる」ことは描いたけれど、本当は「嘘をつく気がなくても嘘をつく」ところまでを描かねばなるまい。それもあって、虚実の皮膜は敢えて薄くしたけれど、これについては、まだ説明不足であることは認めねばなるまい。P.157

 フムン。なんとなくわかるような気はする。おれが実際になんらかの「ドキュメンタリー」に接してみて、その作り手が「嘘をつく気がない」という「嘘」を見抜けるかどうかというのは、なかなかにむずかしい。二重盲検法に近いものがある。これにはクレバー・ハンスもお手上げ(お脚上げ?)だし、クレバーでないおれなどは参ってしまうところがあるかもしれない。

とはいえ、参ってしまっていては、知らない間によくわからない水とか壷とかを買わされているかもしれないし、国を滅ぼすような間違いを犯すこともあるかもしれない(いや、国を滅ぼすほどの影響力がそこらに転がってるなら拾うかもしれんけど)。そうなると、より多くの情報を得ること、そして、その情報の視座を把握すること。そして、偏差射撃じゃないが、先を読むこと見越すこと。簡単な話じゃあない。だが、メディア・リテラシーとかいうもんがあるとすれば、そういうことだろう。そうしてこの、森達也みたいな食えないおっさんの仕掛けるプロレスに立ち向かい、本当にシュートを仕掛けてくる情報戦に立ち向かわなきゃいかん。まことにこの世は厄介である。

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ゆきゆきて、神軍 [DVD]

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 ……これ観たことのない人はちょっぴり人生を損してるぜ、と言える「ドキュメンタリー」。