交通、あるいは人間が移動するということについて

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ぼんくらが昼休みにつらつら書く観念的というか空想的な与太話である。

交通というものについて考えてみたとき、やはりいの一番に人間の二足歩行がベースになるべきじゃないのか、と思う。「え、足の不自由な人の車椅子は?」とか、そのへんはとりあえず置いといて(ハンデキャップを補うという意味ではバリアフリーが望ましいにきまっているが)。

都市が身体の延長なのかどうかは知らない。とはいえ、われわれ人類というものはおおよそ歩くのが基本だ。基本動作だ。基本的な移動手段だ。これをないがしろにしていいようには、あまり思えない。「田舎じゃ車なしで生活できない」とかそういうのもとりあえず置いといて(いや、おれは一応都市部、住宅地でしか生活したことないから、どうしてもそのイメージで語ってしまうわけで、これ、置いといたらまずいかなあ、とは思うが、勘弁して)。

しかし、今、この一応は文明先進国である日本という国で道路というと、車道というものが第一に思い起こされるのではないか。道路、といったとき、そこを移動しているのは自動車だ、というイメージだ。人間は端っこの、歩道とかいうところに追いやられてしまっている。歩道のない細い道では、壁にへばりついたりして自動車が通るのを避けたりしなくちゃいけない。

それだけ四輪の自動車というものが便利であり、その利便性を考えて都市や都市と都市を結ぶ道路が発展してきたのだから、それが人間にとってよいことなのだ。そうは言える。言えるんじゃないかと思う。思うのだけれど、やっぱり待てよ、どっか人間が人間として歩くということが軽視されてるんじゃないのか、と思うおれもいる。まあ、何十年も昔の、モータリゼーションとかいう言葉が出てきたときから言われていることだとは思うけれど。

ここでさらに、歩行と自動車の間にある自転車に乗る自分、という立場もある。歩行者にとっては強者、自動車にとっては弱者。事故が起きてその責任は、となると不等号は逆になる。弱いものの立場が強くなる。『ばくおん!』でもそんな自転車乗りが出てた。

さらに細かく見ていけば、歩行者よりちょっぴり速く移動する手段としてキックボードだのドクター中松ジャンピングシューズ(使ってる人を見たことないけれど)があるだろうし、セグウェイみたいなものもある。二足歩行(あるいは車椅子などの補助器具)から自転車、原動機付自転車自動二輪車……そして四輪の超速いスポーツカーないしすごくでかいダンプやトレーラーまでグラデーションを描いている。

現実的には、「この陸橋は自転車と大八車ダメ」(この標識、直前じゃなくて、ちょっと前に「この先◯◯◯m自転車通行不可」とかにしてほしい、というのも、直前にわかるというのはけっこう怖いことになりかねないからだ)とか、「自動車専用」とか、「高速道路で歩いてポケモン探すな」とか明確な(そして必要な)区分はあるわけだけれど、おれにはグラデーションのように考えたい。

そのグラデーションの濃淡の中の或る部分で、道路交通法で同じ区分にされているけど、同じ区分というには性能差なんかが違うと摩擦のもとになる。あいつは邪魔だ、こいつは傲慢だ。人間が便利のために移動したり、ものを運ぶために移動したり、移動すること自体に喜びを感じたりするにあたって、喧嘩なんてないほうがいいに決まっている。

とはいえ、喧嘩が起きてしまうのだから仕方ないといえば仕方ない。仕方ないけれど、どうにかならないか、と空想家は空想する。

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おれが交通について好きな言葉がある。「運転は予測と調和だ」というものだ。いつだったかラジオでピストン西沢が言っ ていた。ピストン西沢は四輪の人だ。それが、公道にしろ、サーキットのレースにしろ、これが肝要だというのである。自転車に乗っているとき、歩行者の動き を予測する。自動車に乗っているとき、自転車の動きを予測する。そして、我速いがゆえに先に、我弱者がゆえに優先に、で睨み合うではなく、調和するように動いていく。スムーズで、ナイスだ。

と、いったところで、相対する歩行者同士がお互いに同じ方向に道を譲ってしまって、通せんぼのやりあいになってしまうこともある。お互い親切心でやろうとしているのに。むずかしい。ひょっとすると、これは機械の方が得意なのではないか、とすら思う。そうなると、さきの交通のグラデーションに「自動運転の」なにかが入り込んでくるかもしれない。そんなご時世だ。そうなったら、たとえば自動車乗りの人は少しストレスが減るかもしれない。とはいえ、それがはたして自動車乗り(運転者)といえるのかどうかもわからないが。

まあしかし、おれが空想するに、自動車というものはなくならない(車輪を回転させたりする仕組みは変化するかもしれないが。あるいは車輪がなくなったり)。だが、マイカーというものが存続するかどうかというところには興味がある。むろん、おれとて自動車運転免許を持っているし、車を運転してその面白さのひとかけらも知っているつもりなので、そういう意味ではつまらない世界になるのかもしれない。

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話がずいぶんとそれてきてしまったようだ。話を戻すと、やはり生身の人間がそのままに歩くこと、歩行者であることが基本にあって、その先にいろいろの乗り物がある、という感覚は忘れないようにしたい。だからといって、歩行者さまだからポケモン探しながら前なんて見ないぜ、歩行者信号無視するぜ、じゃあいけないに決まってる。やはり、べつの乗り物との調和を考えたい。配慮や遠慮ではなく調和。調和ならばそれほど摩擦も起こらないし、上から目線も下から目線も少ないのではないか。まあ、それでもこのエントリー、最初にタイトル欄に入っていたのは「人間の歩行が第一」とかいう、そんな政党あったっけとかいう言葉だったのだけれど。

だからなんだろう、弱者だからといって驕らず、かといって必要以上に怯まず、強者だからといっていじめず、相手の立場になった場合や状況を考えて……って、やっぱり理想、空想くらいしか出てこない。とはいえ、道路の構造や、交通法規といった面からもまだまだ改良の余地があるだろう。あるいは、時代の流れとともに改良していかなければいけないのだ。われわれのマインドもつねに新しい状況に対して敏感にあって、移動することについて魂をよい方向に駆動さえていかなければならない。そういうことだろう。おしまい。