高橋源一郎『デビュー作を書くための超「小説」教室』を読む

 

 べつの高橋源一郎の本を探しているとき、偶然目に入ったんだからね! ……とかツンデレだかなんだかわからぬが、べつにあんたのために小説を書こうなんて思ってないんだからね! とかあらかじめ断っておきたいようなタイトルの本ではある。なにせ副題が「選考委員があなただけにそっと教える特別なレッスン」だもの。

とはいえ、これが小説家志望者たちにとって、どれだけ実用的なものかというと、ちょっとわからない。『一億三千万人のための小説教室』を読んだときもそう思ったけれど。

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

 

とはいえ、この本から溢れ出てくるのは、著者による新人賞に関するスタンス、すなわち、できるだけ可能性を見つけ、拾いあげたい、同じギルドに属する仲間を迎えたいという思いである。決して、ライバルになりそうだから蹴散らそうとか、そんな話はないらしく、「受賞者なし」にするときなどは、本当に苦渋の決断なのだそうだ。いやはや。

 青年は、自分が、わからなかったのです。その何かを、いちど自分の外側にかたちづくり、それを自分で確かめたい。できれば誰かに見てもらいたい。 そんな思いに、青年は突き動かされました。

 自分自身を知るために、青年は、名もなき怪物を、つくらずにはいられなかったのです。

 自分のアイデンティティを確認するために、名もなき怪物を、つくってしまったのです。

 自分が、自分として生きていくために、名もなき怪物が、必要とされたのです。

 小説である、という意識は、ただ人とコミュニケートすることばや、実用的なことばにはおさまりきらない、自分とは何か、をことばによって表現しようとしてる、ということです。

p.64

 名もなき怪物。フランケンシュタインが作りしもの。あるいは、トルーマン・カポーティが『叶えられた祈り』で書いてた、「まだ汚れていない怪獣」?

おれは小説を書いたためしがないが、なにかわからないでもない。いま、こうやって、読書感想文という形をとりながら書いているなにか。ブログというメディアを使って書いている、いつものなにか。それはとどのつまり「自分とは何か」についてほかならない。中島義道によればマイナスの給油。おそらくだが、おれの半分はおれがネットに書き残しているなにかであって、その半分をしっているそこのあなたは、おれの半分を知っていることになる。おれが日常、生身の身体で接しているだれかが決して知らない(おれの好きな女さえ知らない)なにかを知っているということになる。おれはおれの言葉を必要としている。それは誰かに読まれたがっている。

死んだ祖母の話をする。母方の祖母のことだ。もうずいぶんアルツハイマーが進んでいた。自分の子供も孫もわからなくなっていた。あるいは、生きて最後に会ったときのことだろうか。珍しくスーツ姿のおれを見て、なぜか「小説家みたいだねえ」と言った。おれはタイプライターを持っていたわけでもないし、原稿用紙の入った封筒を持っていたわけでもない。ただ、スーツを着ていただけだった。祖母はそんなおれを見て「小説家みたいだ」と言った。おれは記憶というものにあまり関心がなく、いろいろの重大事であろうこともどんどん忘れていくのだが、なぜかそのことは覚えている。だからといって、おれが小説を書き始めるなんてこともなかった。そんな話である。