さて、帰るか

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もしこの世がGoogleだとしたら、ここ一週間くらい、我が社はGoogle八分されているんじゃあないかという感じだった。鳴らない電話、来ないメール。……お盆休みの、時期だから。それにしたって、かなり暇なので、おれは相当に抑うつ的の方に引きずられ……ることもなく、なにかそういう不安には目をつぶることができて、のんきにオリンピックを夜遅くまで見たりしていた。

ひょっとしたら、おれの軽躁状態というのはこのていどのことなのかもしれない。幸か不幸かわからぬけれど。そして、楽しい時間はあっという間にすぎる。遠い部屋、遠い声。

シン・ゴジラ』をもう一度観たい。そういう思いが強くなっている。とはいえ、もう一度『シン・ゴジラ』を観るならば、ある条件を満たしたいと願っている。ある条件はここには書かないが。ああ、しかし、それでも観たい。

「個体発生は系統発生を繰り返す」というように思ってきた。なんとなく、理科でそう教わったような気もするし、違うかもしれない。ところが、どうもそうではないよ、というのが最近の研究結果もあるらしい。植物の分類にしろなんにしろ、遺伝子の研究が進むと、「見た目が似ているから」というようなものは捨てられていくのだろう。無論、科学というものは、より再現性があり、より確からしい方向に進んでいくべきものであろうから、異論を挟む余地はない。しかし、「個体発生は系統発生を繰り返す」ほうがロマンがある、などと文系は勝手なことを思う。思うのは勝手だ。だいたい「個体発生は系統発生を繰り返す」かどうかなんて生活には関係ない。「個体発生は系統発生を繰り返す」ことを否定すれば、食品館あおばで精肉が20%引きで買える、などというなら別だが。発生砂時計モデルセール。

ゴジラはなぜ荒ぶるのか。核兵器などを生み出した人間への怒り? 地球の怒り? それとも、生命というものの根源の怒り? 原生的疎外感が暴れているの。なにを言ってるんだ。よくわからない。人は昔、鳥だったのかもしれない。

おれは昔、鳥だったという覚えはない。おれは昔、なんだったのだろう。おれがおれである前のことについて考える。考えても答えは出てこない。追憶も感傷もない。物心ついたおれがおれでなかったときのことを考える、思うことの不可能性。それは、おれが死によっておれがおれでなくなることを想像することと、どういった相違があるのか。死の怖さは死を振り返ることができないところに起因するとすれば、やはりそこには、今、ここの自己が考え、思うことができるというところで、物心のないおれを考えることは、おれの死を考えることとは違う。

とはいえ、おれはおれの私情の芽生えの瞬間を覚えていない。一番古い記憶は、霧の中、箱根のケーブルカーが登ってくるのを見たときのこと。あるいは、祖父母の部屋でじゅうたんの模様を指でなぞっていたときのこと。このいずれかに違いない。もっとはっきりした記憶となると、幼稚園に通う前、近所の公園で同世代の双子とかけっこをしたことだ。おれの方が年上だったが、早生まれのせいもあって、おれの方が足が遅かった。おれの記憶は敗北から始まっている。

死に勝利があるのならば、勝って死にたいと勝手に思っている。勝手に思っているだけで、おれの死はおれの手には負えない。