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鶴見俊輔『思い出袋』を読むのこと

 

思い出袋 (岩波新書)

思い出袋 (岩波新書)

 

 高橋源一郎が「3.11のあと吉本隆明の『吉本隆明が語る親鸞』と、鶴見俊輔の『思い出袋』しか読めなくなった」というようなことを言っていた(

加藤典洋×高橋源一郎『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』を読む - 関内関外日記

ので、どのようなものかと読んでみた。とはいえ、おれは鶴見俊輔をよく知らない。

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……この程度しかよく知らない。とはいえ『思い出袋』は面白い本であった。高橋源一郎が好む、一種の「まだらぼけ」からしか生まれないような同じ話の繰り返しあり、突飛な話の飛び方あり、老年でなければ出てこないような回顧録であった。冒頭からこうである。

  八十歳になった。子どものころに道で会った、ゆっくりあるいている年寄りを思い出す。その身ぶりに今の自分が似てくると、その人たちの気分もこちらに移ってくる。その人たちは1840年ころに生まれた。黒船がきたときには、おどろいただろう。

「記憶の中の老人」

ああ、人の世代というものはこのようなものかと、頭から思った。おれにとって黒船といえばせいぜい芦毛馬のクロフネであって、蒸気船は教科書のなかの話である。ただ、鶴見俊輔の世代というものを挟めば、その先にあるのだ。

 そしてまた、太平洋戦争の話である。開戦当時、鶴見はアメリカに留学していた。アメリカに残る道もあったが、交換船で日本に戻った。

 この戦争で、日本が米国に負けることはわかっている。日本が正しいと思っているわけではない。しかし、負けるときには負ける側にいたいという気がした。

 もし勝つ側にいて、収容所の中で食うに困ることもなく生き残り、日米戦争の終わりを迎えるとしたら、そのあと自分が生きてゆく途は、ひらけてゆかないように思えた。

 それは、ぼんやりとした見通しで、しかし六十二年たった今ふりかえっても、後悔しない。ぼんやりしているが、自分にとってしっかりした思想というものは、あると思う。

「ぼんやりとした記憶」

この話は何度も出てくる。留学先の大学教授は、明治維新を成し遂げた日本という国が、負けるとわかる戦争をしないだろうと言った。しかし、自分は戦争になるだろうと思った。その上で日本に帰った。

これがいったいどういうことなのか、おれにはよくわからない。よくわからないが、負ける側にいようと思ったこと、実際にそうしたこと、実際にそうして、兵隊にとられたこと、なにか筋が通っているように思える。鶴見俊輔の思想、プラグマディズムというものはまったく知らぬが、その一点でなにやら信じられる人のように思える。

 ニ・ニ六事件の青年将校たちは、国家の観念を純粋化する。こうした純粋化への誘惑は、どの政治の流派にも、常にくりかえしおこる。これに対して阿部定は、自分の行為が自分にもたらした罰を受けとめて、悔いるところがない。阿部定は私にとって、国家純粋化とはちがう生きかたを、自分の行為の帰結としてしっかり生きる人に思われる。断じて国家を絶対化しない立場を選ぼうと私が志すとき、今も阿部定は、好きな人である。

「そのとき」

これなどは映画『愛のコリーダ』を思わさずにはいられないが、国家を絶対化しないというところに阿部定、というのがいい。いま、そんな罪人があるだろうか。あるような気もするし、そうでないような気もする。あらゆる犯罪者が革命家ということもないだろうが、たとえばラーメンが早くこないことに店員を脅す男にとって、国家など半ライスほどの価値もないだろう。人間、どこかそういうところがなきゃいけないと思う。ラーメン屋を脅す必要はないけれど、そういうところが。

 私の日本語はあやしくなっていたが、この言語を生まれてから使い、仲間と会ってきた。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友だち。それが「くに」で、今、戦争をしている政府に私が反対であろうとも、その「くに」が自分のもとであることにかわりはない。

「戦中の日々」

かといって、国(くに)というものを全否定するわけでもない。なにをもって自分の母国とするか、考えなくてはならない。いい子ちゃんの言い分のようでもあるが、そこはなにかやはり国を考えるうえで根本のところのようにも思える。たとえば簡単に「愛国心ではなく愛郷心」と言い換えて済むようなものではない。

 てな具合だが、全体的になんというか、冒頭述べたように同じ話の繰り返しが多い。別媒体に発表したものを集めたから、というわけでもない。そのあたりの幽玄のようなもの、これはなにか中毒性がある。高橋源一郎が晩年の武者小路実篤にひかれているようななにかだ。おれ自身はそのなにかに遠いが、そのなにかを好もしく思うところはある。鶴見俊輔が子供のころに出会った老人は黒船におどろいた世代、鶴見俊輔は米国時代にオーソン・ウェルズの火星人襲来のラジオ放送をリアルタイムで体感した世代、それの書き残しをわりと近い時代に読むおれの世代。妙な気分になる一冊、であった。