村上春樹『Sydney!』を読む

 

シドニー!

シドニー!

 

 ノーベル文学賞村上春樹マカヒキくらいの人気を集めるのだろうか? よくわからない。それとは関係なく、むしろリオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの余韻から『シドニー!』を読んでみた。こういう本があることは知っていた。「でも、今さらシドニー・オリンピックの話もないよな」と思っていた。

ところがどうだろうか。さすが自らもマラソン(……たまにジョギングと混用されるが、本当のマラソン)を走り、トライアスロンまでやる男の書くことである。有森裕子犬伏孝行(いまWikipediaを見たら、元西武の犬伏と親戚関係にあった)のルポなど、なんといったらいいのか、見事なものである。おれが今まで読んできた本のうちで十本の指には必ず入る『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読んでいるような気になった。こいつはすごい。たとえば、競馬ファンとして村上春樹の書く競馬を読みたいと、そう思ってしまうようなしろものだ。『福永祐一はなぜビッグアーサーの進路を殺したのか』とか。いや、ひさびさに競馬で大負けしたので、福永のネタはひっぱります。

それはともかく、「こいつはすげえや」と思って読み始めたのだが……。実際にシドニー入りした村上春樹といえば、食い物や酒がおいしいとかそうではないとか、オーストラリアにおけるワニによる人死にの統計だとか、サメに襲われるサーファーの割合だとか、コアラの生態だとか、歴史的に見たアダルト・チルドレンとしてのオーストラリアとか、そんな話ばかりしている。

 キャプテン・クックが船に乗ってきてからたった三百年足らずのあいだに、この土地は運命のままにあっちにやられ、こっちにやられてきた。実に忙しい変遷だ。そこにいたるまでの六万年のあいだは、ずうううううっとのんびりと貝殻と石ころの交換だけをやっていたのにね。そのまま放っておいたら、きっと今でもアボリジニーの人たちはここで貝殻と石ころの交換だけをやっていただろうし、それに対してとくに何の不便も感じなかっただろう。文明というのはなんだか奇妙なものですね。不便さを改めることで、不自由さを作りだしつづけているだけではないか。

シドニー日誌 9月15日」

 それでも、村上春樹を刺したシーンがなかったわけではない。たとえば、そのアボリジニーの血をひくキャシー・フリーマンの走りであり、高橋尚子の走りであり、えーと、ほかにもなんかだ。カヤック投げとか。でも、結論はこうだ。

 オリンピックくらい退屈なものはないのか?

 僕は窓の外をぼんやり眺めながら、それについて少し考えてみる。でも、いちいち考えるまでもない。答えはイエスだ。イエス、イエス、イエス。オリンピックはとても退屈だった。

シドニー日誌 10月3日」

開会式の選手入場、ABCDのデンマークで飽きて会場から出てきてしまう人間の言うことである。それにしたって、そうなのか。たぶんそうなのだろう。それでも、砲丸投げを見てみたり、ホッケーの試合を見てみたり、ハンドボールのキーパーに注目してみたり、仕事とは言えちょっと楽しそうでもある。

オリンピックという非日常。自分の生活とは直接に関係あることなどほとんどない(村上春樹は仕事で行ってたわけだけど)。それでも、ルールもよくわからない競技の、たとえばホッケーならホッケーのスティック捌きを見てしまう、感心してしまう、そのあたりのこと。いくら商業主義と国家主義にまみれようが、なにかしらスポーツの意味のようなものがある。「クオリティーの高い退屈さ」というものがある。著者はそこんところを覚めた目で見ている。その視線は面白い。全部が全部、思い入れのある競技についての、完成度の高いインタビューとルポであってもよかったが、そうでないところでこれもいい。適当に博物館に行ったり、自分がジョギングしたり、ノートパソコンを盗まれたりする日誌、これもまた一興。

で、考えなくてはならんのは、次に「Tokyo!」がよほどのことがないかぎり行われるであろうということだ。いや、べつに考える必要はないか。ないけれども、もしおれが東京オリンピックのときに生きていて、少しは自由になるお金と時間があったならば、なにかマイナー競技のひとつでも見てみたい、ということだ。べつにこの本の影響というわけじゃあない。そう思っていたのだ。「クオリティーの高い退屈」をこの目に。それはしかし、退屈なのかどうか。

 

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シドニー! (コアラ純情篇) (文春文庫)

シドニー! (コアラ純情篇) (文春文庫)

 

 

シドニー! (ワラビー熱血篇) (文春文庫)

シドニー! (ワラビー熱血篇) (文春文庫)

 

 ……おれは一冊で読んだが、この二編と内容で違いがあるかどうかは知らない。

d.hatena.ne.jp

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