本当に賢いということ 『ホワット・イフ? 野球のボールを光速で投げたらどうなるか』

 『ホワット・イフ』である。「野球のボールを光速で投げたらどうなるか?」とか「地球で普通に飛んでいる飛行機を、太陽系のほかの天体の上空で飛ばしたらどうなりますか?」とか「どのくらい超新星に接近したら、致死量のニュートリノ放射を浴びられますか?」とか、そういう疑問にNASA勤務もある物理畑の著者が、なかなか愉快な棒人間漫画とともに答えていく。元はそういうウェッブサイト(http://what-if.xkcd.com/)なのかな。
 して、これはそういうくだらなかったり、想像を絶するような疑問に対して、科学を用いて(おそらく苦心しながら)「こんなんですよ」と答えていくわけである。空想や想像を実際の科学や物理に落とし込んでいく、その点では一時期流行った柳田理科雄の『空想科学』ものに近いかもしれない。まあ、いずれにせよそういう本である。
 一種のトリビア本として読んでもいいし、ユーモアのSFとして読んでもいいかもしれない。とはいえ、おれはこれを読みながら「本当に賢いということはどういうことだろうか?」ということに気がいってしまった。たとえば「タイムズ・スクエアの1000年前、1万年前、10万年前、100万年前、10億年前はどんなんですか?」という質問に対して、だいたいこんなはずだ、と答えられるということ。そこには人類の歴史についての知識が必要とされる、人類以前の生物の知識が必要とされる、地球という星の大陸の成り立ちについての知識が必要とされる。そして、それらをだいたい答えられる。……これは賢い。賢くなければ答えられない。
 同様に、地表から10メートル上は、100メートル上は、1000メートル、10000メートル、100000メートル上はどうなっているのか? とか、そんなことについて、だいたいの想像がついたりするのも賢い。大気圏再突入について空気の摩擦じゃないよ、圧縮だよというのも賢いが、おれはなんとなくだいたいの見積もりがつけられる、あたりが「本当に賢いことなのだろうな」と思う。
 そしてなんだろうか、そういった基本的な事柄というのは、最高級、最先端の科学教育を受けなければ身につかないものではないのだろうな、とも思う。おそらくは小学校、中学校、高校あたりの授業をきちんと聴いて、その場しのぎでなく理解していけば、なんとなくの推測はつく事柄なのではないだろうか。フェルミ推定というか、なんというか、物理と数学で成り立っている世界の大雑把な把握というものである。大雑把でも世界を把握している。細かく計算してみたり、実験してみたら違った、というのでもいいが、仮説を立てられる。それが本当に賢いことなんじゃないだろうか。
 とかいうおれは、京大卒の化学博士の孫にして、大の算数、理科嫌い、そして落伍者なのである。そんなおれが本書を読むとなると、やはりトリビア本、ユーモアSF本といった具合になってしまう。知的好奇心が刺激された、などと書けば嘘ではないだろうが、「おれは世界の本当というものに縁遠く生きているな」と思うばかりである。とはいえ、いったいどのくらいの人が「ステーキを高いところから落として地上に到達したときにちょうど焼けているようにするには、どれくらいの高さから落としたらいいですか?」という疑問に対して、(正解でなくとも)なんらかの知見から仮説を組み立てられるのだろうか? おれにはそれもよくわからない。