白幡洋三郎『プラントハンター』を読む

プラントハンター (講談社学術文庫)

プラントハンター (講談社学術文庫)


 プラントハンター。著者は序章からこの用語をあえて使うことについて述べる。バンクス卿が使ったボタニカル・トラベラーでもなく、ホーティカルチュラル・エクスプローラーでも、プラント・コレクターでもなく、「プラントハンター」。

 彼らは珍しいものを手にしたい、集めたいというコレクションの心も持っている。まだ行ったことがない地域を探検したいというエクスプローラーの気持ちもある。けれども目的はなんといっても、植物を見つけだすこと、獲物としての植物を手に入れることなのである。そこでやはり、プラントハンターという表現が、これらの人にはぴったりくるように思われるのである。

 本書は園芸熱に沸く19世紀ヨーロッパ各国が世界に送ったプラントハンターたちが紹介されている。もちろん、その「世界」には鎖国が解かれつつあった日本とかいう国も含まれている。
 それにしてもなんだ、その当時の熱狂というのはちょっと想像するだけでも、SFじみているような気さえする。なにせ人類未踏(け……ヨーロッパの白人にとってはそういう感覚だろう)の地に、見たこともない動植物がいるのだ。今の時代で行ったら、なにか生命のある惑星を発見したくらいのもんじゃあないだろうか。イギリスなんかは地理的にあんまり自生する植物の数が多くなくて、まあ熱狂しただろうなということだ。それになんだ、トケイソウだのヒスイカズラ(写真)だのゴクラクチョウカだの初めて見たら、そりゃたまらんだろうな、と。
 そのゴクラクチョウカ。マッソンというプラントハンターとしては控えめな性格な男が発見に寄与した(先に標本をヨーロッパに送ったのはツンベルク)。ツンベルクは「マッソニア属にすりゃいいんじゃねの」と言ったらしいが、マッソン、リンネ先生に手紙を出して「ツンベルグ博士とかほかの植物学の仲間はそう言ってるけど、やはりリンネ先生にうんたらかんたら」とかお伺いを立てる。したら、いつの間にかキューガーデンのバンクスが王妃シャーロッテの出身家からストレリチア属になっちまった、とかね。

 ちなみに、この控えめなフランシス・マッソンは、南アフリカからヨーロッパにペラルゴニウム(ゼラニウム)をもたらしたりしている。けど、どっか報われない。
 著者は、その「わりと報われない」あたりのプラントハンターを描きたかったのかな、という感じもする。もちろん、医師で外交官で大使としてその国を訪れた人物がプラントハンティングする、なんていうこともある。でも、危険なところに出向いて命がけでやるハンターというのは、生年不明のわりと低い身分の出で、植物園の従業員とかやってて認められたのちに、「ブラジル行ってくれ」とか「オーストラリア行ってくれ」とかいう、そんなんである。それでもって、本当なら海路をとった方が早くて安全なのに、「道中なにかあるかも」とかいいながら陸路を進んでチンボラソに行ったりするのがプラントハンター魂というものなのである。
 して、派遣地へ行くのはもちろん危険を伴う長い船旅である。

 イギリスあたりじゃよく知られているらしいこの反乱にも、プラントハンターが関わっている。2人のハンターと700の植物と800鉢のパンノキ(植民地なんかの奴隷の食料にどうか、という話になっていた)の苗を積んでいた。で、タヒチから出港して反乱が起きた。

 タヒチを出港するときびしい生活が待ち受けていた。航海中は、乗組員に厳しく制限される飲料水が、パンノキには惜しげもなく与えられるのが、乗組員の多くの反感を買ったという説もある。

 いやはや。しかし、パンノキっておいしいのかね。
 また、歴史の中には人も時期もまったく不明に旅した植物もあった。キューガーデンが派遣したウィリアム・カーが広東やマカオで収集(園芸商から買った)したなかに、日本特産のササユリやアセビが混じっていたという。著者はそこに「真に無名のプラントハンター」を見る。
 一方で、大規模で有名となると、大英帝国のキューガーデンであり、園芸植物界の「ダイナスティ」であったヴィーチ商会ということになる。なにかもうこのあたり、プラントハンターたちを主人公にした、世界をまたにかけた覇権争い、陰謀、策略、国家の狙い……そんな物語でもあっていいんじゃねえか、という気がする。グレート・ゲームだ。
 とかそういう妄想はともかくとして、現実にすごい威力を発揮したのが「ウォードの箱」だ。

 これによって極東やら南米やらからヨーロッパへ生きた苗を運べる確率が格段に高くなった。ちなみに、1860年、ロバート・フォーチュンが日本でこの箱が必要になって、横浜の大工に作らせようとしたが、木の部分はうまくいくが、ガラスをはめる技術がなく、そこはオランダ人大工にやらせた。ところが3年後、次に派遣されたハンターが日本に来てみたら、日本人の植木屋がちゃんとガラスをはめた「ウォードの箱」を売りに来ておどろいたという。
 とはいえ、1900年のパリ万国博に日本もたくさんの園芸植物を送ろうとしたけど、航海中に開花しちゃったり、発育不良になっちゃったり、枯れちゃったりで、そのあたりウォードの箱とその使い方を知らなかった。そんな話もある。
 ロシアからもプラントハンターが来た。代表的なのはカール・ヨハン・マキシモヴィッチということなろう。そのマキシモヴィッチを手伝った日本人がダニイル須川長之助(wikipedia:須川長之助)で、種小名にtschonoskiiとあったら、彼への献名だ。ミネカエデにイヌシデ、ミヤマエンレイソウ、知らんかったな。
 なんかこう、学名なんぞ覚えられない(覚える必要はないが)と思っていたが、人名が元で……とかいうと、少しは……やっぱり無理か。
 あー、なんか話をしているときりがないなー。日本のことでいうと、江戸時代というのはまたマニアックで異常なほどの園芸文化を突き進んでいて、「斑入りのラン! 斑入りのシュロ! 斑入りのツバキ! そして茶の木さえも」と西洋人(ロバート・フォーチュン)を驚かせたり、染井、王子の植木村の規模で圧倒したりしている。

 その植木村は、ロンドンの種苗園を知っているフォーチュンをも驚かせる程の規模だった。

 村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル以上もつづいている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない

 そのうえ、日本の植物ばかりでなくサボテンやアロエフクシアなんかまであったそうだ。しかし直線一マイルって、2000ギニーできるじゃん。あ、横幅せまいか。
 それとなんだね、アーネスト・サトウ、いるよね、かれもハンティングしてた。して、そのサトウと日本人との間に子供がいて、植物学者、登山家になったなんてのも知らなかったね。

 著者によると、この武田氏もプラントハンター的人物だったという。

 ……つーわけで、まあそんなんだ。プラントハンティングの目的には人々の興味をひく園芸種を探すこともあれば、食用だったり加工用(ゴムノキとか)になったり、木材だったりといろいろだ。だが、それは上の方の目論見だ。最後に、著者の言葉を引用しよう。

 運んだ人物の地位や身分に応じて植物の価値が決まるのではなく、その植物の珍しさ、不思議さ、有用性などから価値が定まり、有名度が決まる。自ら運んだ植物の価値によって自分が計られるのを待つのがプラントハンターである。
 有名な植物で、有名な人に運ばれたものは一つもない、といってよいだろう。有名な植物はほとんど、無名のプラントハンターが運んだものだ。

 その無名なものたちのなかでも、19世紀には名前が記録され、今日に伝えられているものがいる。プラントハンター、なかなかエキサイティングでロマンがあるじゃないか。おしまい。