森田真生『数学する身体』を読む

数学する身体

数学する身体

 おれと数学、数学とおれ。笑わずにはいられない。おれは高校の数学の宿題まで母親に頼っていた。今もって、どうして数学をはじめとした理数系のテストの赤点を逃れて高校を卒業できたかわからない。おれは小学校の算数からまったくできない子であった。今もって算数もよくわからぬ。例外があれば、馬券の組み合せ数と、合成オッズを薄らぼんやりと計算できることくらいだろうか。当たらないのでいずれも役に立っているとはいえないが(そしてそもそも金がないのでもう何ヶ月か馬券を買っていない)。
 そんなおれが『数学する身体』なる数学の本を読む。鬼も笑う。とはいえ、おれはおれが数学に不自由な人間であるがゆえに、数学の熱烈な信奉者でもある。この世界というものは数学で片がつくと思って疑わない。囲碁も将棋も株の相場も、馬券でさえも、数学の力によって解き明かされるものと思っている。おれは数学の「す」の字もわからぬが、数学というのは一種の真理であり、無謬のものであると信じて疑わない。
 ゆえに、数学に関するなにかを読みたいという心はある。心はあるが、初等算数で躓いてしまった知能の持ち主だけあって、数学の本に手を出すということはほとんどない。ほとんどないが、たまには手を出す。その一冊がこの本、『数学する身体』であった。この本はみごとなものであった。数式が出てこない。具体的な算数も、数学も、慎重に避けている。避けながら、おそらくそれらを解さないであろう文系人間に向かって数学の面白みを説く。チューリング岡潔を紹介する。
 少し、物足りないと思う。なにがなんだかまったくわけがわからん、というエンジン全開のところがあってもよかったように思う。おれは置いてきぼりになる。それもまたよし、又吉イエス。とはいえ、われわれが教育されるところの数学とはどう位置づけられるか、といったところはぼんやりとわかったような気にさせてくれる。

 私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。数学は初めからいまの形であったわけでもなく、時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだ。

 へえ、そうなの。というか、やっぱりまったくわけがわからん、と正直に言おうか。

 チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした。
 “数”は、それを人間が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。算盤の時代も、アルジャブルの時代も、微積分学の時代においても、数は人間に従属している。数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。
 チューリングはその数を身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピュータの理論的礎石が打ち立てられた。

 ところでチューリングは青酸によって死に、著者は「苦いアーモンドの香りがした」と書いているが、そのアーモンドは巴旦杏の果実の香りを指しているかどうかわからない。話を逸らした。おれには数学的風景が想像できない。それは一種の神秘的体験のように思えてならない。それくらいおれと数学は遠い。
 と、思っていたら、岡潔という数学者はこんなことを述べていたらしい。孫引きである。

 数学の本質は、主体である法が、客体である法に関心を集め続けやめないということである。……法に精神を統一するためには、当然自分も法になっていなければならない。

 その他、岡潔という人のエピソードを読むに、おれは鈴木大拙や秋月流みんを思い浮かべずにはおられないし、数学の基礎の基礎をすっ飛ばして禅のあれやこれやあたりに意識を飛ばしたくなってしまう。そのあたり、興味深くもあり、一方で、そんなんじゃねえよな、というブレーキがかかる部分でもある。
 いずれにせよ、数学知らずのおれが勝手に想像するところである。松岡正剛ほど縦横無尽に胡散臭さと説得力を振り回すでもなく、どこかにすっ飛んでいるわけでもない著者の誠実さがこの本にはある。おれのような無学はさらっと読んでしまえる。数学に造詣のある人がどう読むかはしらない。もう少し「身体と数学」について自分の言葉で踏み込んでくれてもよかったような気はするが、まあそれはそれだ。そんなところだ。

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身体の零度 (講談社選書メチエ)

身体の零度 (講談社選書メチエ)

……なんとなくタイトルが似ているので。これにおれは大きな影響を受けた……ような気がする。