おれは何なのだぜ 森山公夫『躁と鬱』を読む

躁と鬱 (筑摩選書)

躁と鬱 (筑摩選書)

 まず現在、改めて驚くことは、躁うつ病の治療論がほとんど「薬物治療」に置き換えんばかりの「薬の支配」であり、その背景にあるグローバル製薬企業の宣伝力、そしてそれに乗ってしまう精神医学界のある種の無力さである。

 おれは「双極性障害」すなわち躁うつ病と診断されて1年か2年経つ。おれはおれの躁状態を自覚したことがないので、あまり躁うつ病の自覚はない。ただ、処方されたジプレキサの影響で、宅間某や加藤某のような他害の想念が抑えられたのを実感している。おれはジプレキサに支配されて、せいぜい希死念慮を抱えるにとどまっている。その点でおれは「薬の支配」を受け入れているし、それは悪く無いことだと思っている。おれが典型的な双極性障害ではないとしても、なんであれジプレキサ(オランザピン)の効く人間だという自覚はある。
 とはいえ、一応は「双極性障害」の診断をくだされた人間である。「ひょっとしたら躁だったのでは?」と思う状態がなかったわけではない。というわけで、「躁と鬱」について関心がないわけじゃあない。でもって、こんな本を読んだりもするのだ。薬に頼っているわりには、だ。

……まず第一に、うつ病も躁病もともに「孤立」と「生リズム障害(不眠)」にはじまる。第二に、うつ病では、関係・価値の「喪失」幻想による「空虚」のさ中から、その回復を求めての絶えざる「手遅れ的焦燥」が、ないしは絶望の挙句の「深淵への墜落」が、無限の連鎖をなす。他方、躁病では、関係・価値の「獲得」幻想による「悲壮な多幸」から、その獲得実現にむけての「先取り的焦燥」が、ないしは歓喜の挙句の「天空への飛翔」が、やはり無限の連鎖をなす(これら連鎖をここでは「狭義の躁うつスパイラル」と呼ぶ)。
 そして第三に、この連鎖は悪循環をなし、さらなる生の「疲弊・興奮」を呼び、それにより事態はさらに悪化し、躁うつ病像が拡大再生産されてゆく。

 おそろしい、おそろしい。ノルアドレナリンセロトニン欠乏説が破綻しているという著者の言い分ではこのようになる。おれはこないだいつもの精神科で「アメリカにはシンビアックスっていうのがあるらしいですね?」と言ってみた。医者は本心かどうかしらぬが「何それ?」と言った。

……基本的には彼の体験が、「自分は社会の負け犬だ」の劣等感と、「自分は孤独の天才だ」の優越感という自我をめぐる思い、つまり「微小念慮」と「誇大念慮」の両極に収斂し、関係妄想的方向への発展は少なかったため、わたしは彼を「躁うつ病と診断した。

 おれは負け犬だ。なぜ殺さないのか? おれの書くものから、おれを「孤独の天才だ」と思うものが入るか? いるんなら、あんたも精神科を受診したほうがいい。

 人間の存在様式、あるいは関係様式には三型あり、三型のみである。一つは職場や学校や社会での「集団」との関係である。第二は、家族や親友・恋人との一対一の「対」の関係である。そして第三が、独居するときの自分の自分自身との関係である。

 はい、出てきました吉本隆明。著者はこれらについて、統合失調症を「共同幻想」、躁うつ病を「個的幻想」、てんかんを「対幻想障害」に対応させたというが、さてどうやら。おれにはさっぱりわからんよ。

 二つの心とは「元来明るく、責任感が強く、辛抱強く、律儀。一面で非常に図太いところがあり、多面、内向的で気が小さくクヨクヨしやすい。仕事熱心で几帳面なため、仕事は遅れがち。強情だが、多面、謙虚でもあり、考えが常識的である反面、常識性に反撥する」である。

 えー、なんのバーナム効果? みんなそんなんじゃねえの。とはいえ、著者は、こういった例を患者や歴史的人物の例から挙げていく。どんなもんかね。とはいえ、プロザックをなんたらして、自家製シンビアックスだぜとかいってる一方で、そればっかりじゃねえよなとは思う。

 ……だが、こうした一般的風潮に抗し、躁うつ病探求の本道はあくまでもこの精神症状の構造的理解にあり、それ抜きに躁うつ病の本質を論じることはできないことをここで強調したい。躁うつ病は「精神病」であるから、まず精神状態の正しい人間理解を要し、生物学的所見はその理解があってはじめて真の意義を見出しうるのである。

 という感じ。とはいえ、おれは処方薬のために仮に「双極性障害」となっているだけであって、なにやら不定形な、ヘタすれば新型うつとかいうもの(……にしては仕事にそれほど拒否感がないのだが)かもしrないし、などとは思うのだが。なにせおれは躁が進行して「自分は天使だ」とか思ったりしたことは今のところないもの。うーん。ジプレキサが抑えてくれているのか? まあ、この本に出てくる躁うつ病の症例を見ていると、おれなど健康な人間に分類されるんじゃねえかと思ってしまうところもあるのだが。

 恐怖は対象をもつが不安は対象をもたない、とは従来よりほぼ共通認識となっている。

 とはいえ、不安に、対象をもたない不安に? いや、おれは貧困という対象に恐怖しているから、不安神経症とはいえないかもしれないが。とはいえ、それは漠然としているといえば漠然としている。おれは不安だ。だから抗不安薬を食う。

 少なくともうつ病の「三大妄想」(罪責・心気・貧困)と対象的な誇大妄想があり、これをここで「天才妄想・超健康妄想・富裕妄想」と呼んで「躁病の三大妄想」と捉えることにする。

 この後者の三大妄想が、ないんだよなぁ。貧困は現実だし(通帳に記されている)、一方で、天才? まあ、おれは天才だし、そんじょそこらのやつよりいろいろの才能があるのは確かだが、あれ、妄想があるじゃん。おそろしい、おそろしい。
 というわけで、なにか断片だけ拾って、この本の主なる道を辿ってはいない。双極性障害の諸氏には、ぜひ本書そのものにあたってもらいたい。あたったところでなににあたるのか知った話ではない。とはいえ、cureとhealの前者にばかり重点を置き、薬でなんとかなると思いがちなのはやや問題があるかもしれぬ。そういった意味を含めて考えることは多い。そして、著者は睡眠の重要性を説く。このあたりは信用できる。だからおれはもう寝る。おやすみ!

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